シグノアは自身の見たことを掻い摘んで話し、これからの局面に関わる大切な点だけを再度取り上げた。
「クロウの鴉を見た時、それは球の形ではなく、限りなく黒いモヤが球状に集まっているだけでした。彼は箱庭の滅亡を願う者たちの瘴気、その集合体です」
「だけど聖女様はもう限界なんですよね?」
「その通りです。クロウが何もしなくとも聖女はもう長くありません。そこで私がお二人にお願いしたいのは、聖女でもクロウでもない、私に協力してほしいのです」
「それで旦那はなにがしたいのさ? オジサンまどろっこしい話は嫌いだよー?」
ディアフォンの問いに、シグノアは狐につままれたような顔をして息を呑む。決意を固めたシグノアはまっすぐディアフォンを見て、ゆっくりと口を開いた。
「私は、二人の戦いに巻き込まれるアークの宿主を、ヴェリドくんを救いたい」
シグノアの声は落ち着いたものだが、そこには隠しきれないほどの熱量が潜んでいた。
「そうでなくちゃ。旦那は魔人なんだから自我を通せば良いのよ」
ディアフォンはシグノアを見て笑った。いつものふざけた笑いではなく、誰かの背中を押すための力強い笑みだった。
「僕は協力しますよ。何かあったら言ってくださいって言いましたし」
ジーンも口元に笑みを浮かべる。恥ずかしそうに笑う彼につられて、シグノアも笑みを溢した。
「それでは、よろしくお願いします」
シグノアはそう言って二人の元を離れた。
※×※×※
何も知らないガーリィは薬屋にて、すり鉢の中を確認する。いつも通りの調剤で、何も変わらない日常がそこにあった。しかし、そこにヴェリドやシグノア、クロウの姿はない。
「……あいつら何してんだか」
ガーリィは誰も居ない店頭でため息を零した。のんびりと薬草を加工していると、とりとめのない考えが浮かんでくる。今日の夕食はどうするだとか、次に来る客は何を買っていくかだとか、皆がどうしているかなどだ。
ガーリィが皆のことを考えていると、決まって心に不安な気持ちが立ち込めてくるのだ。自分の知らないところで、彼らに大きな災いが降り注ぐような気がしてならなかった。
ガーリィは調薬をやめ、暗い気持ちを晴らすために最近の趣味になっている手芸を始めた。ガーリィの手の中には作りかけのぬいぐるみ人形がある。その人形の顔立ちはどことなくヴェリドに似ていた。ガーリィは皆の安息を祈りながら、細い糸を手に取った。
※×※×※
世界中の鴉が一同に介する。全ての鴉は輪郭を溶かしながら一つの闇として蠢く。闇は蠢きながら人の姿へと近づいていき、クロウと呼ばれる魔人になった。
アークの大半が集まり、ヴェリドは精神を壊すことなく成長した。なぜだか分からないが、聖女はクロウの策の上で踊っている。彼女は踊らされているのか、それとも踊っているのか、どちらかはクロウには分からない。どちらにせよ踊っているというのなら策を実行するのみだ。
身体を構成する数多の魂の断片、その瘴気たちが一様に歓喜の声を上げている。これから千年の悲願が叶うと思うと、落ち着いていることなどできない。
感情の巨木に贄として捧げられ、生きず死なずの人々の願いはただ一つ。自らを捧げた後、巨木から逃げた民への復讐であり、その術としての聖女殺害だ。
贄たちの醜悪な笑みがクロウという実態を通じて世界に投影される。その容貌は誰とも呼ぶことのできない、怪物そのものだった。
※×※×※
聖女は物憂げに窓から街を眺める。人々はこれから起こる悲劇を知らずに、それぞれの日々を過ごしていた。聖女はため息をついて目下の街並みから目をそらす。そして窓に映る自分の姿を見た。
千年前から変わらぬ肉体で、心だけが疲弊した哀れな少女の姿がそこにはあった。
少女は彼のためだけに生きていた。千年間待ち続けた。思い出すまで待っててくれと言ってくれたから、聖女はその時を待った。
最初は違和感があった。その次は興味。そして最後は確信。ヴェリドが彼であることに、今更疑いはない。表面は濁れども、彼の本質は変わらないままだった。彼なら終わりゆく箱庭を存続させることができるかもしれない。
だが、もう遅い。
少女は世界を救いたいから世界を救うのではない。彼が人々を救いたいと願ったから、彼が道半ばで息絶えてしまったから、彼の願った世界を創るために少女は聖女となったのだ。
だがその箱庭も、もうすぐ終わりを迎える。箱庭が潰えてしまうのなら、最後の仕事をしなくてはならない。
聖女の手によって保たれていた魂の循環はこれから崩壊する。そうなる前にできるだけ多くの魂を、もとの世界の循環に還してやらねばならない。
彼なら、哀れな鴉も救うのだろうか。聖女は分かりきった問いを思い浮かべ、一人笑みを浮かべる。
聖女は再び外を見つめる。
見えている景色が血の海に沈むのだろうと、聖女は他人事に考える。いくつもの命が絶たれるというのに、聖女になった少女の頭に思い浮かぶのは一人の少年の顔だけだった。
コメント