一人の死者と幾千の魂 最終話:世界はもう一度芽吹く

一人の死者と幾千の魂

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 誰もいない巨木の下にたった一人の人間が生まれた。

 それは世界が産んだ始まりの子。あるいは止まってしまった時計の針を再び進める改革者。彼女の生誕を望むものこそあれど、彼の生誕を見届けたものはいなかった。

 彼女が生まれ落ちた後、幾百、幾千の人間が巨木によって産み落とされた。その容姿は千差万別で、彼らは互いの顔を見つめ合い、誰からともなく笑いあった。

 彼女らは互いに協力しながら、誰も使わず崩壊した街を復興し始めた。初めのうちは食べるものすら無かったが、彼らの顔から笑みが絶えることはなかった。

 それから幾度も日が巡り、街もようやく片付いてきた。新たに生まれた人の子の協力もあり、最低限は暮らせるようになってきた。彼女らはことあるごとに、巨木に吊るされたお腹のない女性の遺体に祈りを捧げる。

 過去に何があったか、彼女らは知らない。だが、彼女の存在から過去に悲惨な何かがあった事を推測するのは容易かった。

「私は、私たちは、今日という日を迎えることが出来ました。これにどれだけの意味があるのかお分かりでしょうか? 人間という種が途絶え、再び生まれ落ちたことはまさしく奇跡なのです」

 再び人が生まれて、一年が経った。まだ生活圏は狭く、人の数も全盛期に比べれば遠く及ばない。子供を産み育み、そうして大人になった子供が再び子を産む。命の営みの始まりはここからなのだから。

 しかし、それでも始まったのだ。巨木は長い時を経て人の罪を浄化し、祈りを形にした。

「忘れてはなりません。私たちが犯した罪のことを。同じ悲劇を繰り返してはならないのです」

 人々の前に立ち話す彼の言葉はまっすぐだった。街の外からやってきた彼の言葉の裏にある深さは計り知れず、誰もが彼の話に耳を傾ける。まっすぐで重いその言葉は人を惹きつける力があった。

「ですが、私はこんなことを言いたいのではないのです」

 白髪の彼は一度言葉を切り、周囲を見渡す。目元には蒼い目隠しが巻かれていた。皆真剣な顔をして彼の話を聞いていた。口を一文字に結び、固く閉ざしている。

「祝いましょう! 再び出会えた仲間たちと! 私たちは苦しむために生まれてきたのではないのです。確かに苦しいこともありましょう、悲劇は確かにあるものです、ですが!」

 先ほどとは打って変わって、手を広げ勢いよく話す彼に、人々は虚をつかれたような顔をする。

「今は笑いましょう。せっかくの祝いの場なのです、祝祭に辛気臭いのは似合わない。そうでしょう?」

「宴だー!」

 誰かがヤジを飛ばした。

「お祭りだ!」

「お囃子はまだか! 踊りたくてたまらん!」

一人、また一人と声をあげる。誰かが歌い出した。それに合わせて手拍子が鳴る。

「白髪の旦那も踊りましょう!」

 壇上にいた彼は苦笑し、困ったような顔をする。手拍子は収まるどころか次第に大きくなっていく。

 それは粗野な祭りに似合わぬ美しい舞だった。つま先から頭の先まで、全てが統制された孤高の舞である。

 見る人が見れば、それが剣無き剣舞であると気がつくだろうが、そこには気づくものはいない。だが何かが足りない寂しさがあることは分かった。

「もっと楽しく! そうですよね?」

 一人が壇上に登り、彼の手を取る。彼女の笑みにつられて白髪の彼も笑った。

 それから皆好きなように踊り、歌い、笑った。普段は長き夜も、その日はすぐに朝が皆を迎えに来た。踊り疲れた人々は互いに体を重ねるようにして眠っている。

 しかし、一人、ふらりと立ち上がる者がいた。

「旦那」

 そう呼びかけたのは特徴のない男だった。顔立ちも、雰囲気も何もかもが平凡で、人混みに紛れればすぐに見失ってしまうようなその人はどこかへ向かおうとする白髪の彼を引き止めた。

「水臭いことはやめにしよーよ、今まで上手くやってきたじゃんか。オジサン寂しいよ?」

「……もう私たちはお爺さんですよ」

「そりゃそうだ」

 二人の間に哀愁にも似た沈黙が流れる。言葉はいらなかった。二人は巨木を後にして、遠く離れた箱庭を目指す。

 全てが過去になった地は、草木が生い茂っていた。その中でも箱庭の中央には巨木に引けを取らないほど大きな木が生えている。ひび割れ崩壊した大地にも、オルフィの花が芽吹いていた。

「今日まで色々なことがありました。伝えたいことがたくさんあるんです。聞いてくれますか?」

 大樹の根元には蒼く輝く魔剣が刺さっていた。

「ヴェリドくん」

 その魔剣に瘴気の澱みは無く、純粋な祈りだけがあった。魔剣に刻まれた紋様は風化することなく美しくあり続けた。

 シグノアは蒼藍の魔剣にそっと触れた。

――(完)――

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