短編小説 芙雪明けの夜春

短編小説

@芙雪明けの夜春

「芙雪、芙雪!」

 夜春は自分の母親だと名乗る女性に自分ではない誰かの名前を呼ばれる。

 ふゆ、芙雪。夜春の頭の中に芙雪という名前が文字列として通過していく。夜春はそれが誰なのか分からないという様子で首をかしげた。警察や医師から話を聞くと、自分はどうやら芙雪という名前らしい。しかし夜春にとってはその名前が誰を指しているのかが分からなかった。

「……すみません、芙雪って誰ですか?」

 夜春がそう言うと、眼の前の女性は声を押し殺して涙を流し始める。スーツを着た付き添いの人は女性の泣く姿を見て、女性に退出を促した。

 夜春は自分の隣に置いてある花瓶を退屈そうに眺める。色々なことが制限されている病院の中ではやることがないのだ。この部屋の天井のシミの数は全部数えてしまった。身体を動かすことが好きだと言うのに部屋にこもりっぱなしでは気分も上がらない。

 春が来て、綺麗に咲いた桜が窓からよく見える。窓がもう少し開けばその花びらに触れられるのにと思ったが、あいにく窓はあまり開かない。

 夜春は芙雪という少女について考えてみた。しかし芙雪がどんな子なのかはいつまで経っても分からないままだった。

※×※×※

 一限の始まりを示すチャイムが鳴った。芙雪の机の上には国語の教科書とノートが広げてある。お世辞にも綺麗とは言えないノートだが、自分が読めれば問題ないと言わんばかりにその字体を貫いている。

 先生は教室に入ってきて一番に黒板に文字を書き始めた。そこに先生が書いたのは「お父さん・お母さんのこと」という文だ。それから先生は座席の方へ顔を向けた。

「皆は今までお父さんやお母さん、色々な人に支えられて育てられてきたよね。ご飯を作ってくれたり、夜遅くまで働いてくれたり……」

 先生は皆を一人ひとり見ながら優しい声で話している。芙雪は先生の優しい人柄が好きで、先生の顔を見ながら真剣に話を聞いていた。

「それから、遅刻した颯馬くんを起こしたり」

 少し間をおいて教室の後ろへ視線を向けて最後の言葉を付け加えた。芙雪は先生に釣られるように視線を教室の後ろへ向けた。

「おはようございます!」

「遅い、明日休みだからって気ぃ抜くなよー」

 そこには元気に挨拶する颯馬が立っていた。先生と颯馬のやり取りに思わず教室から笑いが溢れる。お調子者の颯馬は「すんません」と言いながら芙雪の席に座った。先生もそれ以上言わず話を続けた。

「皆には十歳という節目の時期に改めてお父さんやお母さんのことを考えてみてほしいんだ。皆にはお父さんやお母さんの作文を書いて発表してもらうからしっかり書くんだよ。まずは周りの人と自分のお父さんお母さんについて話してみて」

 先生がそう言うとたちまち教室の中は会話でいっぱいになる。斜め前の席の花恋が芙雪に話しかけてくる。

「芙雪のママはどんな人?」

「ママはいつもふゆのためにたくさん働いてる。でも忙しいからなかなか会えなくて寂しいかな。花恋のママは?」

「うちのママは家でお料理とかお洗濯とかしてるよ。いろんな料理が作れて、一緒に料理したりする。パパはサラリーマンしてる」

「ふゆはパパいないからわかんないや」

 花恋はふと思い出したように眉を上げ、気まずそうな顔でごめんねと小さな声で頭を下げる。芙雪は気にしないでと手を振って笑った。それでも花恋はまだ申し訳無さそうな顔をしている。

「正直パパとか言われてもピンと来ないんだよねー」

 芙雪は少し間抜けな声でそう話した。花恋は芙雪の声色に思わず笑みをこぼす。そこに颯馬が顔を突っ込んで、大きな声というよりもでかい声で自分の話を始めた。

「俺の父ちゃんはテレビで働いてんだぜ」

「なにそれ」

「カメラマンやってんだよ、だから有名人といっぱい知り合いなんだって!」

 芙雪は颯馬の話をこれまでもよく聞かされてきた。ある時はアイスで二回連続で当たりを引いただとか、ある時は自販機の下で十円玉を見つけたとか、そんなしょうもない話だ。

 しょうもない話だと分かっていても、颯馬が話していると不思議と面白い話のように聞こえてくる。今のように花恋との会話に入り込んできても嫌な気はしなかった。

 どこか嫌いになれないやつ。芙雪は颯馬のことをそう位置づけていた。

「自慢話する人はモテないんだよ?」

「うるせー! 女と遊ぶよりサッカーしてたほうが絶対楽しいから良いんだよ!」

 花恋はわざとらしく嫌な顔をしてみせた。颯馬は意地になって言い返す。二人がワイワイしてるのを横目に、芙雪は両親について考えてみることにした。

 芙雪はあまり自分の父親について詳しく知らない。芙雪が三歳の時に事故にあって亡くなったらしい。父親が事故にあって死んだという事実は母親から聞かされていたが、詳しいことは聞かされていない。

 父親との思い出を振り返ろうとするも大した思い出は浮かんでこない。かろうじて思い出されたのは芙雪が二歳の頃の話だ。公園で転んで膝を擦りむいてしまった芙雪は、父親におぶってもらって家に帰ったのだ。

 今思えばそこまで大きな怪我でもないのに喚き散らしたものだと、芙雪は当時の自分を思い出して笑った。

 母親はシングルマザーとして芙雪を育てている。母親は生活費を稼ぐことに苦労していて、朝から晩まで働いている。そのため普段は直接顔を合わせることは滅多にない。芙雪に宛てた食費と書き置きが母親が家に帰ってきている証だった。

 小学校に上がったばかりの頃、芙雪は「ママの料理が食べたい」と言ったことがある。料理の作り置きを食べることはあったが、作りたての暖かいご飯を共にすることはほぼなかった。

 その時に母親がひどく困った顔をしていたことをよく覚えている。芙雪の言葉をわがままといって切り捨てるにはあまりに冷たいと思ったのだろう。母親は良いとも悪いとも言わず、ごめんねと言ったのだ。それ以降芙雪はわがままを言うのをやめた。

 良い子にしていれば母親が笑顔でいてくれるとはっきりと気づいたのもこの時と同時期だった。ただでさえ顔を合わせることが少ないのだから、顔を合わせる時くらいは笑っていて欲しいと思うようになった。

 それまではトラブルを起こせば母親が迎えに来てくれるからといって、やんちゃをしたり時には怪我をして母親に迎えに来てもらっていた。母親に怒られるが幼い芙雪は自分のことを見ていてくれている気がして何度も繰り返していた。

 馬鹿なことをしていたと思う。

「ひどーい! 芙雪もそう思うよね?」

「ひどいよね」

「ほら芙雪もこう言ってるんだし」

 どんな話をしていたのかは分からないが芙雪は適当に相槌を打つ。相変わらず二人はお喋りが上手だと芙雪は思った。よく途切れずにこうも話ができるものかと感心してしまう。

 芙雪は自分のことを話すのは苦手で、何気ない話をするのはもっと苦手だった。何を話せば良いのか分からないのだ。二人は色々な友だちと話しているのを見るが、芙雪が友だちと胸を張って言えるのは花恋くらいだった。

「ん? どうしたの?」

「なんでもない、次の体育嫌だなぁって」

 花恋は芙雪の顔を覗き込みながら首をかしげる。体育が嫌なのは嘘じゃない。ただ、なんとなくきれいな瞳を向けられるのが恥ずかしくて、芙雪は思わず目をそらした。

※×※×※

「寒くなってきたねー」

「もう日が暮れちゃうからね」

「わたし今日習い事あるからそろそろ帰る」

「うん、またね」

「また明日」

 放課後、芙雪と花恋は住宅地にある公園のブランコで他愛もない話をしていた。ブランコの支柱の根本にはランドセルが二つ置いてある。一つはきちんと置いてあるのに対して、もう一つは乱雑に放り投げられていた。放り投げられたランドセルは砂埃にまみれて薄汚れている。

 花恋は習い事があるからと言って、ブランコから降りてランドセルを拾った。花恋は公園の出口で振り返り芙雪に向かって手をふると、小走りで公園を出ていった。

 それを見た芙雪も、しばらく前に漕ぐのを辞めてベンチと化していたブランコから降りてランドセルの砂埃を払う。

 芙雪は公園を出る前に振り返り公園の端にあるポールの上の時計を見上げた。時計は四時半を指している。時計から視線を地面に向けておろしていくと、日は出ているものの薄暗くて時計の影ははっきりとは見えない。時計の隣に植えられた桜の木はすっかり葉を落として寒そうにしている。

 芙雪は手袋の上から手をこすり身を縮めてトボトボと家へ向かう。マフラーに顔を埋めてうつむいていた芙雪は視界の端から突如現れた何かに左腕を掴まれ引きずり込まれる。

 芙雪は突然の出来事に頭が真っ白になる。身体のいたる所から痛みを感じ、眼の前の男に襲われているのだと一拍遅れて気づいた。眼の前の男は馬乗りになりながら芙雪の首元に手を掛けている。

「騒ぐな騒いだら殺す」

 芙雪は爆ぜるように脈打つ鼓動のままに叫ぼうとした。今も、恐怖心そのものが口を衝いて出ていこうとしている。しかし男がやつれた冷え切った目で芙雪を睨むと、その勢いは口を結んでいない風船のように萎んでいった。

 芙雪は助けを求めようと叫ぼうとしたが、恐怖心が邪魔をして思うように音にならない。早くなる呼吸のまま吸い込んだ空気は、ただ掠れるようなうめき声となって喉から漏れるばかりだ。手足をばたつかせるも、大した意味はなかった。

「助けて……!」

 かろうじて出た言葉も男に喉を強く押さえつけられて小さなノイズへと変わってしまう。

「本当に殺すぞ」

 芙雪は目に涙を溜めて首を縦にふる。男が少し力を緩めると芙雪は激しく咳き込んだ。芙雪は露骨に表情を歪める男に身を固くするが、男は舌打ちしただけだった。

 男は慣れない様子で芙雪に布を噛ませて手足を縛る。芙雪は後部座席に詰められ、頭にブランケットを被せられた。車が動き出す音がかすかに聞こえるが、景色は全く見えない。身じろぎをしてブランケットをどうにか外そうとするがブランケットが外れる気配はない。

 芙雪は身じろぎすることをやめて、ただ狭く何も見えない空間の中でこれからのことを思案する。思案すると言っても頭に浮かぶのは漠然とした恐怖と母親の顔だけだった。母親の穏やかな表情を浮かべると形にならない恐怖心が少しだけ薄れた。

 ブランケットから少しだけ差し込む光も完全に途絶え、完全な暗闇となってから数時間が経った。もしかしたらそれほど時間は経っていないのかも知れない。既に芙雪の中には正常な時間の感覚など残っていなかった。

 他の車が走る駆動音が聞こえなくなり、車は坂道を登り続けている。車が止まると男は車外へ出て行った。芙雪はどうなるのか分からない恐怖で気が狂いそうだった。それでも芙雪にはどうすることもできない。ただ身を縮めて恐怖と寒さをやり過ごそうとした。

 どれほど経ったのかは分からないが、男が戻ってきた。男は車を少しだけ前に進めて再び車から降りた。大きな物音がした後、芙雪は男にむりやり抱き起こされる。

 男になされるがままに運ばれていくとブランケットの隙間から光が差し込んできた。芙雪は頭を覆うブランケットや手足の拘束具を解かれた。そして無意識に周囲を見回す。

 そこは古い家のようだった。部屋の壁は土気色で明らかに年季が入っている。なんの匂いかは分からないが独特な匂いがした。芙雪の祖母の家とは違うが、それでも芙雪は“おばあちゃんの家”のような懐かしさを感じた。

「おかえり夜春」

 芙雪は一瞬誰に向けられた言葉なのか分からなかった。あまりに穏やかな声でそれが誰の声なのかも分からない。しかし男の口が動き、その視線が自分に向いていることは疑いようがなかった。

 男の変わりように理解が追いつかず、恐怖と緊張で何が起きているのか分からなかった。引きつった表情で男に視線を返すと、男は穏やかな表情を歪めて芙雪を殴りつけた。

「おかえりと言われたら、ただいまだろ! お父さんに対してそれはおかしいだろ!」

 訳が分からない。しかし男がふざけていないことだけは、混乱の中にいる芙雪でも分かった。頬を殴られ口の中が切れる。痛む頬と口を動かして芙雪は男が望んでいるであろう言葉を発した。

「……ただいま、お父さん」

「うん、おかえり。お母さんがご飯作ってくれてるよ。早く食べよう」

 お父さんと名乗る男は満足そうに笑みを浮かべた。

※×※×※

「いただきます」

 芙雪と男、そして知らない女性が食卓の席についた。机には味噌汁とご飯、野菜の煮物、ブリの照り焼きと様々な料理が並べられている。芙雪は普通というには少し豪華な料理に目を丸くする。最近はコンビニのおにぎりやパンが多く、温かい料理は久々だった。

 芙雪は恐る恐る煮物の大根を口に運ぶ。その味に違和感はなく、毒物や異物が混ざっている気配は感じられない。

「……美味しい」

 芙雪は思わずそんな言葉を漏らす。正面に座る女性は一瞬箸を止めて笑みを浮かべた。芙雪はご飯を口に含んで咀嚼しながら、訳の分からない空間で摂る食事だというのに美味しく食べられる自分が悔しくなった。

「お母さん、明日は会社だけど弁当はいらないよ。上司が奢ってくれるらしい」

「何? 良いもの食べるの?」

「大したもんじゃないよ、軽いもの食べながら簡単な打ち合わせ」

「わかった」

 男が何か話し始めた瞬間、芙雪は身を固くし心臓が早鐘を打つ。お母さんと呼ばれた女性は“お母さん”として、男とさしあたりのない会話を交わしている。芙雪は顔を上げてはいけない気がして、眼の前のブリに視線を落とした。

 皿には大きなブリが一切れ乗っていて、ブリの脂が照り焼きのタレの上に浮いている。芙雪が箸を入れればブリの身は簡単に崩れてしまう。芙雪は切り身から鱗の粗い皮を剥がして口に運んだ。品よく盛り付けられていた切り身はバラバラと崩れてしまった。

「ごちそうさまでした」

 正面の二人が手を合わせるのを見て、慌てて芙雪も手を合わせる。芙雪はごちそうさまでしたと口に出すが、その声はちいさくか細いものだった。

「夜春、どうかした? なんかあればお父さんが話聞くよ?」

  自分を襲ってきた男が自分を心配している現状に、不快感や嫌悪感、恐怖が腹の底から込み上げてくる。男は気味の悪い笑顔を浮かべて詰め寄ってくる。その醜悪な姿に芙雪は思わず一歩退く。

 すると男の顔からストンと表情が消え、ひどく冷たい目を向けた。

「なんで逃げたんだよ、お父さんなんか悪いことした? お父さんたち家族だよね? お父さんはただ夜春の事が心配なだけなんだよ。それなのになんで逃げたの? ねぇ?」

 男は震える芙雪の肩に手を乗せて激情に身を任せて腹部を殴りつける。男は痛みに喘ぐ芙雪が落ち着くのを待ち、再び殴りつける。

「っ汚いな……。涼華、片付けておいて」

 四回目の強打で芙雪の胃から内容物が口から溢れ出てしまう。男は先程まで芙雪を押さえつけていた左手で、怒りに身を任せて芙雪を突き飛ばす。押さえつけられる力を失った芙雪はバランスを崩して倒れ込んだ。

 芙雪は焦点の定まらない瞳で男の方をぼんやりと見つめる。男は芙雪の方を一瞥すると、女性に一言だけ伝えて自室に消えていった。

 男が大きな音を立てながら部屋のドアを閉めたのを確認して、女性は顔色を変えて芙雪の元へ駆け寄ってくる。

「……ごめんね。私、なにもできなかった」

 芙雪は女性になにか言葉を返そうとするが、言葉の代わりに再び吐き気が込み上げて来る。芙雪は女性に背を擦られながら夕食のすべてを吐き切った。

「訳分からないよね。いきなりここに連れてこられて、殴られて」

 芙雪に話し始めた女性の声は震えていた。

 フローリングに座り込む芙雪の焦点が徐々に女性に合ってくる。女性の目から涙が伝っている。痩せこけて目の下には隈ができていた。質素なヘアゴムで後ろに一つにして結ばれている髪の毛は艶を失い、ひどく傷んでいる。

 芙雪は直感的に女性は自分と同じなんだと気づく。彼女も男に連れてこられたのだ。

「ねぇ、名前なんていうの? 夜春じゃなくて、本当の名前」

「……芙雪、です。お姉さんは? 涼華?」

 女性は困ったような笑みを浮かべる。芙雪の目には、女性の優しげな表情の奥にはおぞましいなにかが息を潜めているように見えた。

「涼華はお母さんの名前。私のことは、お母さんって呼んで。それが芙雪ちゃんを守ることになるから」

「でも、本当のママじゃない」

「そうだね。でもね、ここでは私はお母さんじゃないと行けないの。お母さんじゃないと怖い思いをするから」

 女性の瞳にはもはや光は映らない。芙雪は“お母さん”の狂気に濡れた瞳を見つめる。土砂降りの雨の日の校庭と同じ、濁った色だ。この家にいる限り、その濁りが消えることはない。

「芙雪ちゃんもだよ。ここでは芙雪ちゃんは夜春じゃないといけないの」

「……ふゆ、全然わかんない」

「そうだよね。ここで過ごしてれば嫌でも分かるようになるよ」

 “お母さん”は妙に明るい声でそう言った。それは何か大切なものが抜け落ちたかのような軽さだ。あるいは諦観の果てのようにも感じられる。

「さ、お母さんと片付けしよっか」

 片付けを終えて、芙雪は大きな湯船に身を縮こまらせて浸かっていた。芙雪は湯船のお湯を見つめながら“お母さん”の言葉を反芻する。

 芙雪はこれから夜春として過ごしていかなければならない。あの女性が“お母さん”をしているように、芙雪はこの家では夜春なのだ。

 “お母さん”の様々な表情を思い出してはつゆと消える。そして苦しげな表情であるというのに気遣ってくれた“お母さん”に感謝の言葉を伝えていなかったことを思い出す。芙雪は胸いっぱいに息を吸い、頬を膨らませながら湯船の中に吐き出した。

 幾度かそれを繰り返すうちに、様々な感情の波が押し寄せてくる。誘拐されたという恐怖と男からの理不尽な暴力への怒り、これからの不安、“お母さん”への申し訳無さや本当の母に対する謝罪。幾層にも重なる不幸な感情の波が芙雪の中で何度も満ち引きして心を揺らし続ける。

 芙雪は押し寄せる感情に耐えきれなくなって、湯船の中でしばらく声を押し殺して泣いた。

※×※×※

 芙雪の母親は電車に揺られながら、スマートフォンの画面で時間を確認する。画面には「22:03」と表示されている。家に帰るのは二十二時半までには帰れるだろうとため息をついた。

 娘のために働いているというのに、肝心の娘と過ごす時間が失われているジレンマに嫌気が差す。しかし芙雪も二十二時半ならまだ起きているかもしれない。寝る直前かもしれないが、娘の顔を見れるなら今日一日が報われるというものだ。

 残業のせいで遅くまで働き、二十三時を超える日もざらにある。そういう日は遅くまで働いたというのに娘の顔を見れずに泥のように布団に入るのだ。そんな悲しみに比べれば今日の残業はかわいいものだろう。

 残業がここまで多いと転職を視野に入れたくなるものだが、なまじ給料が良いので頭を悩ませる。そうやって先延ばしにしてきて、母親は今日を迎えていた。

 娘が小さい頃は一緒にいたいなどと駄々を捏ねていたが、今ではさっぱりなくなり良い子にしてくれている。昔はよく困って頭を抱えていたが、それが無くなったら無くなったで少しの寂しさを感じる。

 ママ友から、育児は可愛いだけではやってられないとよく聞くが、それでも娘は可愛いものだ。仕事に明け暮れていて娘と触れ合う機会が少ないことが、より強くそのように感じさせるのかもしれない。

 金曜日だからであろう、電車の中には仄かにアルコール臭がする。酒の臭う電車から開放され、彼女は自宅への帰路を歩き始める。我が家が見えてきたところで、部屋の窓から光が漏れてきていないことに気づく。

 部屋の大きな窓にはシャッターがついているため中の様子は分からないが、芙雪が起きているなら部屋の小さな窓から照明の光が漏れているはずだ。もう寝てしまったのかと肩を落とすも、それ以上気に留めること無く自宅のドアを開ける。

 部屋の電気をつけ、いつものように冷蔵庫を開けて目的のアルコール缶に手を伸ばす。そこで芙雪のために用意していた肉野菜炒めが残っていることに気がついた。不審に思った彼女はアルコール缶を手に取ることをやめ、娘の部屋を確認することにする。

 部屋のドアから光は漏れておらず、物音もしない。嫌な予感がした。自分の考えが杞憂で、芙雪が何もなく寝ているだけなら良い。しかしなにか事情があるようなら確認しなければならない。寝ていたら申し訳ないと思いつつ部屋を叩き、声をかける。

 しかし部屋の中からの返答はない。もう一度声をかけてから返答がないことを確認し、部屋の中を覗き込む。

 彼女は息を飲んだ。娘がいないのだ。途端に心臓が早鐘を打ち、血液が凍るような悪寒が全身を駆け巡る。脈が十を刻む前に部屋を飛び出し、家の中の至る所を探し回った。そこにいるはずはないと思いながらも、探さずにはいられなかった。

 全ての部屋を探し終えた後、思い出したかのように慌ただしくポケットからスマートフォンを取り出す。110番を液晶に叩き込み、ほとんど叫ぶように言った。

「娘が、娘がいないんです……!」

 対応した警官は落ち着いて対応し、詳しい説明を求めた。彼女は深呼吸をして求められた情報を話していく。小学四年生の娘が家に帰ってきていないこと、それに気がついたのは今現在であるということ、家に帰ってきた痕跡はないこと。

 連絡を受けて、教員や警察、近隣住民など、合計二百人近くの人員によって芙雪の捜索が始まった。

※×※×※

 芙雪が誘拐されてから、約一週間が経った。一日目は訳もわからず殴られるばかりだったが、段々と殴られている理由が分かってきた。

 どうやら男はこの家で“お父さん”として暮らしているようだ。“お父さん”は芙雪のことを“娘”としてこの家に連れてきた。その娘の名前が夜春だと気づいたのは三日前だった。

 芙雪には娘を外から連れてくるという行為が理解できなかった。しかし理解は出来なくても、殴られないようにすることはできる。自分が“お父さん”のために夜春として振る舞えば良いのだと少女は気づいた。

 それから芙雪は、夜春がどんな子であるかを知ろうとした。幸い、少女が与えられた部屋は当時夜春が暮らしていたままだ。今までは部屋にあるものに触れることすらせず、うすい布団で寒さと恐怖に震えているだけだった。

 普段、“お父さん”はこの家で仕事をしているのだが、今日は出社している。少女が誘拐されてきた日の翌日も出社していたが、その時点ではこの環境になれるので精一杯だった。

 “お父さん”がいる時に行って気を損ねることだけはしたくない。だからこそ今日という機会に夜春の人物像を掴まなければならない。

 芙雪は改めて自分の部屋を見てみる。部屋には机と布団、それと小さな本棚があるだけだった。机と本棚はホコリを被っている。机の上にはいくつかの筆記用具が整理されて置いてある。本棚には教科書とノート、それに一昔前の少女漫画がきれいに並べられていた。

 夜春は整頓が得意だったようだ。芙雪は自分の部屋の汚さを想像し、天と地ほどの差があると思った。

 何気なく過ごしているだけだと気が付かなかった事が、よく見ると様々なところに隠されているのだと、少女は気づきを得て少しだけ心がはずむ。しかしすぐに現実を思い出し、冷水をかけられたように気持ちは冷えてしまう。

 芙雪はひとまず机と本棚の上に薄く被ったホコリを払うことにした。少女が雑巾で机を撫でると、蓄積されたホコリの層は机の上からゴミ箱へ落とされていく。

 机の上や本棚は整理されていたため、ホコリ掃除はすぐに終わった。少女は窓を大きく開けて、反対側に付いている小窓も控えめに開けた。爽やかな風が、部屋の中の淀んだ空気と混じり合う。部屋の空気は吹き込む風と混じり合い、徐々に軽やかなものに変わっていった。

 軽やかになった部屋の空気に、もはや淀みを感じることはない。少女は胸に溢れんばかりの空気を取り入れる。冷たい空気が芙雪の胸を刺すが、その痛みも少女にとっては心地よかった。

 改めて机の上を見てみると、ホコリの下には家族写真が埋まっていたようだ。そこには父と母、少女の三人が写っている。写真に写る少女は芙雪とは似ても似つかない美少女だった。

 写真の少女は眩しいほどきれいな笑顔を浮かべている。整った顔立ちでクラスにいたら浮いてしまうほど可愛らしい少女だ。隣に写る父親には“お父さん”の面影が残っていた。

 芙雪はポケットから家族写真を取り出して見比べてみる。その家族写真はランドセルカバーに入れていたものだが、ランドセルは処分されてしまった。しかし“お母さん”が“お父さん”に秘密でこっそり取ってくれたのだ。

 そこに写る自分はしかめっ面をしていた。隣りにいる母親は困った表情をして少女をなだめている。幼かった自分のわがままは酷かったと、芙雪は改めて心のなかで謝っておく。

 次に少女は本棚に目を向ける。本棚からなんとなく目についたノートを引っ張り出して確認する。表紙には夜春の名前が書いてあり、中はきれいな字で板書事項がまとめてある。科目は算数のようだ。三角形などの色々な図形が定規できれいに作図されていた。

 芙雪はフリーハンドで書いてしまうため、自分のノートは見にくくなってしまっていた。ただ、それを改めるのも面倒なので、ぐちゃぐちゃのノートのまま先生に提出しては小言を言われていた。

 しばらく本棚に目を通していると、その中に少女の日記を見つけた。日記には夜春の友だちの事がたくさん書いてある。そこに彼女の友達想いな人となりを感じて、少しだけ妬ましく思った。

 彼女の日記にある話はどれも何気ない笑い話だが、その中に少女は寂しさのようなものを感じた。その寂しさの理由が分からないまま日記を読み進めていく。そして少女の想いを綴るページを見つけた。

10/9

 はなちゃんときょりを感じる。はなちゃんだけじゃなくて皆そう。わたしが話に入るとどこかそっけない態度でお話する。どうしてか聞いたけど、はなちゃんはそんなことないって言ってた。石井くんに聞いたら「おまえずっと笑ってんじゃん。何考えてるのか分からなくて怖ぇんだよ」って言われた。

 笑顔じゃだめなのかな? そっけない態度とったらきらいにならない? いやなこと言ったらたたかない? 笑顔でいればたたかれないんじゃないの?

 怖い。助けてって言ったら助けてくれるの?

 助けてよ。

10/14

 体育の時間に背中のあざをみられた。笑ってごまかそうとしたけど「正直に話して」っていわれた。怖かったけど話してみたら、心配してくれた。いやなことはいやって言って良いんだって。

 お父さんにいやって言ったら分かってくれるのかな?

 やっぱりこわい。けどみくちゃんみたいにわかってくれるよね。

 可愛くて友達想いの優しい、まさに完璧な少女がこのような葛藤を抱えていたことに、芙雪は親近感を覚えた。この家でなんとか生き抜くために身につけた技術がまさにこれだったのだろう。

 この日記を見つけるまでは夜春に成り切るのは難しいと思っていたが、少女は今なら夜春になれる気がした。窓ガラスに顔を向けて、自分の口角を吊り上げる。

 窓の外に桜の木が見える。桜の木が蕾をつけるのはもう少し先なのかも知れない。

※×※×※

 捜索開始から一週間が経過した。ヘリコプターによる空からの捜索や、人海戦術もむなしく結果は出ていない。県境に検問所を設置したが怪しい車は発見されなかった。事件発生から発覚までに時間がかかりすぎた事が発見に至らない原因だろう。

 事件発生から一週間が経ち、最初のうちはたくさんいた人員も少しずつ縮小していった。首都圏での誘拐事件ということもあり、テレビ局の取材カメラも来ていた。

 母親は涙ぐみながら彼らの取材を受けた。いち早く娘が帰ってきてほしい、という言葉や、もっと娘に気をかけてあげればよかった、などの言葉を残した。シングルマザーで子供に目が行き届かないことで事件発覚が遅れたこともあり、社会問題に結びつける報道も少なくなかった。

 事件発生から一ヶ月が経ち、警察による捜査が打ち切られた。母親は最初のうちは食い下がるも、最終的にはその事実を認めるしかなかった。

 そもそも芙雪はこの世にいるのかも分からない。殺されてしまっているのかもしれない。そんなネガティブな思考が立ち込めてくる。しかし母親は生きていることに望みをかけて、今もなお捜索や情報提供を求め続けている。

※×※×※

 少女が日記を見つけてから二ヶ月ほど。少女はこの家での生活に馴染み始めていた。たまに叩かれてしまうこともあるが、笑顔でいれば苦しくなかった。

 ここで暮らしているのは誘拐されてきて辛い思いをしている芙雪ではない。長年お父さんと共にしてきた夜春なのだ。そうやって考えることで少女の心には余裕ができた。

「お母さん? どうかした?」

 お母さんが思いつめた表情をしていたので、少女は声をかける。お母さんが物憂げな表情をしているのは珍しいことではないが、今日は特別暗い表情をしている。

「ううん、なんでもない。後で話す」

 お母さんは取り繕った明るい表情を見せるが、そこには隠しきれないほどの暗さが潜んでいた。少女は首をかしげてお母さんに体調を気遣うような言葉を掛ける。そして水を飲んでから玄関から外へ出ていった。

 家の外には広い庭が広がっている。辺りを見渡す限り木々に覆われていて、この家一帯だけが切り開かれているようだった。家は大きなフェンスで覆われていて有刺鉄線が巻かれている。

 お父さんが言うにはここは獣がよく出るから追い払うためのものらしい。少女は深く考えずに笑顔でその言葉を肯定した。彼に異を唱えたところで良いことなど一つもない。笑顔で肯定することがここでの過ごし方だと少女は理解していた。

 庭には畑がある。しかしその畑は使われている様子はなく、雑草が好き放題に生えていた。荒れた畑を横目にお父さんが待っている遊び場まで向かう。

 そこは地面がむき出しになっていて、均されていた。ここでボール遊びや運動をして身体を動かせるようになっているのだ。

「ごめんなさい、ちょっと遅れちゃった」

「大丈夫だよ」

 遊び場でお父さんは朗らかに笑う。それにつられて少女も笑顔を見せる。お父さんは足元のサッカーボールを少女の足元をめがけて蹴った。少女は慣れない様子でボールを止めて、同じようにお父さんめがけてボールを蹴った。

 しかしそのボールは見当違いのところへ向かって転がっていく。お父さんは小走りでボールに追いついて少し強めにボールを蹴り返す。

「夜春下手になったなぁ」

「最近あまりやってなかったからねー」

 少女は恥ずかしそうに俯きながらはにかむ。しばらくパスを続けていると少女の技術も上達し、しばらくパスが続くようになってきた。しばらく身体を動かしていると芯から暖かくなってきて、熱を持った身体と外気の冷たさが心地よかった。

 少女は疲れて一度、短い休憩を挟むことにした。少しずつ春が近づいてきて段々と暖かくなってきている。しかし運動をやめると、火照っていた身体から熱が奪われ、冬の名残りを感じる。正面に見える桜の木には蕾がプクリと膨らんでいる。花見が出来たら良いなと少女は春の訪れを待ち遠しく感じた。

 不意にお父さんが口を開いた。

「お母さんも呼んで三人でやりたいな」

「そうだね。でもさっき体調悪そうだったよ」

 少女がそう答えると、お父さんの機嫌が露骨に悪くなる。パス交換をしていた時までは笑顔をみせていたのに、お父さんの顔から表情が抜け落ちてしまった。

「お母さんを連れてきなさい」

「……でもたいちょ」

 言葉の途中でお父さんは少女に平手打ちをする。久々に口の中が切れ、少女の口の中に鉄の味が充満する。しかし少女は怯えた表情をすること無く、笑顔で居続ける。先程までの笑顔よりも不自然で引きつった笑みだ。しかし笑顔でいなければいけない。少女は夜春なのだから。

「良いから連れてこい」

「はい」

 少女は鋼鉄の笑みを浮かべ、返事をする。小走りで家へ戻り、ソファに座り込むお母さんに声をかける。

「お父さんが呼んでる」

「芙雪ちゃん、大丈夫?」

「大丈夫ってどういうこと? えっと、私は大丈夫。それよりついてきてよ、お父さんが来いって」

 お母さんの心配そうな表情に、少女は精一杯の笑顔で応える。しかしその反応を見てお母さんはより一層心配そうな表情を見せた。少女はそれよりも大事なことがあると言いたげに頬を膨らませてお母さんの目を見つめる。

 お母さんの目には困惑の色が写っていた。何に悩んでいるのか分からないが、瞳が不安げに揺れている。お母さんは目を伏せて話を始めた。

「……女の子が死んでた。どろどろになってたけど、あの子は絶対に“夜春”だと思う。しかも、一人じゃなかった……。芙雪ちゃんもこのままじゃ殺されちゃうかもしれない。ここから逃げ出さないと、私達死んじゃうよ……!」

 少女にはお母さんが何を言っているのかよく分からなかった。ただお母さんが取り乱しているのを見て、そっと抱きしめた。言葉でお母さんを慰めてあげることはできないけれど、心で慰めたいと少女は抱擁し続ける。

 呼吸の荒かったお母さんが落ち着きを取り戻したところで、少女はお母さんを見つめる。

「後で行くって伝えておいて。遅くならないから、十分後には出れるって」

「分かった」

 お母さんは諦めたような面持ちで少女を見つめ返す。少女は安心して頬を緩め、再びお父さんが待つ遊び場へ向かった。

 少女がお父さんに、お母さんの言葉を伝えると、自ら様子を見に行くと言って自宅へ向かった。お父さんは足音を立てながら不機嫌そうに歩く。時折地面に転がっている樹の実を蹴り飛ばして怒りを紛らわしていた。

 玄関を開けてもお母さんの姿は見当たらない。お父さんはリビングを通り抜けて、自分の部屋が開いている事に気がついた。普段は鍵が掛かっていて入ることが出来ないが、なぜかお父さんの部屋が開いていた。

「――――」

 部屋からはお母さんの声が聞こえた。 お父さんは部屋の中へ入り、お母さんが手にしているスマートフォンを奪い取る。そして通話を終了してから激情のままに地面に叩きつけた。液晶が粉々になって飛び散ったが、それを気に留める人はいなかった。

 お母さんは崩れるように膝をつき、顔を両手で覆った。その隙間から弱く、か細い嗚咽が漏れる。しかしその泣き声はお父さんには響かない。

「夜春、リビングで待ってなさい。涼華と話がある」

 お父さんはお母さんを無理やり立たせて、引きずるように家の外に連れ出した。

 少女はお父さんの言われた通りにリビングのソファに座って時間を潰す。二人が出て行ってから一時間ほど経って、お父さんだけが家に帰ってきた。

「もうお昼だね。ご飯にしようか」

 お父さんは変わらぬ笑顔で少女に微笑む。その後お母さんが帰ってくることはなかった。

※×※×※

 芙雪の誘拐事件発生から二ヶ月と十日が経った頃、警察に通報があった。切羽詰まった様子で話す女性は次のようなことを話していた。

 自分たちは監禁されている。自分の他にも一人の少女がいる。少女の名前は芙雪。場所は山の中に切り開かれた家である。

 女性が必死に情報を伝えていた途中で、通話が途絶えてしまった。緊急性を要する事案に、警察は大規模な人員を動員して捜索を開始した。捜索四日目にしてそれらしき家屋が発見された。フェンスに覆われていて中を確認することは出来ないが、女性が話していた情報とその家屋は一致している。

 なかなか男が出てくる様子は見られず、緊張状態が続く中、ついにフェンスの中で動きがあった。男が車で外出しようとしているのだ。男がフェンスを開け、車を出そうとした瞬間、警察が中へなだれ込み男が抵抗しないように確保した。

 別働隊が家の中や敷地内を探索する中で、腐乱死体が発見された。中には形を留めていないものもあり、数を識別できる状態ではなかった。死体の山の頂上には比較的きれいな状態の二十代後半の女性の死体が放置されていた。

 家の中を探索していた警察は一人の少女を発見した。警官の一人が少女を保護し、彼女に名前を聞いた。

「自分の名前言える?」

「……私は、夜春です」

 少女はためらいがちにそう答えた。庭に植えられた桜の蕾は一つ二つと花開き始めている。

コメント

タイトルとURLをコピーしました