短編小説 輪廻する人形

短編小説

 いつから自分が人形になったかは覚えていない。どうやら昔は人間だったらしい。らしいというのは自分では明確に人間として生きていた時のことを覚えていないからだ。ふとした時に思い出す記憶の一部が人間の頃のもののような気がする、という曖昧な感覚だけが私が人間だったという唯一の証であった。

 人だった頃の記憶はどうにも苦しいものが多い気がする。その記憶も曖昧で、ただ苦しかったという印象が強く残っているだけであり、具体的なことを思い出せることはとても少ない。

 しかし自分が人形として見た景色のことはよく覚えている。一口に人形と言っても様々な物があって、有名なアニメキャラクターを模した食玩人形やビスクドールなどの観賞用人形、少しイメージから外れてカカシやマネキンなど実用的な物もあった。

 耐久実験用のダミー人形として過ごした時間はなかなか味わうことのできない経験だと思う。ひたすら交通事故に遭い続けるのは苦痛だったが、私は当然のことだと受け入れ、そのことに疑問を抱かなかった。

「ただいま!」

 自分の思考の中に彼女の元気な声が割って入ってきた。どうやら部屋の主が帰ってきたらしい。ドタバタと慌ただしい足音が次第にこちらに近づいてくる。彼女は勢いよく部屋のドアを開けると同時に、すぐさま私に話しかけてくる。

「ただいまくーちゃん! ちゃんといい子にしてた? ずっと同じお洋服を着てたでしょ。お着替えしてお洗濯しなくちゃ」

 クマの人形だからくーちゃん。いたって普通の名前だが、わかりやすくて自分でも気に入っている。なにより彼女がくーちゃんと呼ぶ時の表情が好きなのだ。天真爛漫な彼女は溢れんばかりの笑顔でこの名前を呼んでくれる。

 彼女は保育園の制服から着替えていないのにも関わらず、様々な小物を持ち出してお人形たちのお世話を始めた。自分の着替えを済ませずに私たちのお世話をするなんてお母さんになにか言われるだろうと思っていると、案の定スーパーで買い足したものを冷蔵庫にしまい終えたお母さんが顔を出して、彼女に早く部屋着に着替えるように急かした。

「はーい」

 素直に返事をするものの、なかなか人形たちの前を離れようとしない。私以外にもたくさんの人形たちが小さなテーブルの上に並べられていて、彼女にとっての楽園が目の前に広がっていた。私のようなぬいぐるみたちや小さな置物タイプの人形、女の子の着せ替え人形などたくさんの子たちが彼女を待っていた。

 しばらくの間、並べられた人形たちとクローゼットを交互に眺め、お母さんからの三回目の催促で彼女はようやく着替え始めた。

 

「あらくーちゃん、汚れちゃったの? それじゃあお風呂に入りましょ」

 彼女は私が着ている洋服を脱がして、バスタブに見立てた箱の中に入れた。鼻歌を歌いながら私の体の色々なところを撫でて汚れを落とす真似をする。しばらくそうした後、私を外に出して次の人形をお風呂に入れて洗ってあげる。

 実際にはきれいになっている訳では無いが、そうしてもらうことで心だけでもきれいになった気がする。実際のところは長年遊ばれたことで体毛は黒くくすんだ色になって、チリチリになってしまっている。昔は鮮やかなブラウンベアーだったが、今ではおじさんクマである。もしかしたらおばさんクマかも知れない。

「くーちゃん今度は体調が悪いのね? それじゃあお薬飲もうね」

 そんな彼女の言葉に私はハッとさせられる。元気そうに見える彼女ではあるが、実は大きな病気を抱えていた。普段は月に一回ほどの通院で良いのだが、体調が悪化したときは入院することもあった。

 薬を常用している彼女からすれば、その言葉は当たり前という認識から来ているような気がした。ふとした瞬間にそれを思い出してしまい、ただ世話されるままの自分がなんだか情けなかった。

 

 私がこの人形としての自我を得たのは彼女が一歳の誕生日を迎えた時だ。私は誕生日プレゼントとしてこの世に再び生を受けた。人形にとって生を受けるという言葉が正しいのかは分からないが、確かに私は生まれてきた実感があった。

 彼女が一歳の誕生日を迎えた時、両親が泣きながら喜んでいたのをよく覚えている。彼女はよくわかっていなさそうで不思議な顔をしていたが、両親から貰ったプレゼントを見たときは嬉しそうだった。

 それから彼女と長い時間を過ごした。一緒に遊ぶのはもちろん、一緒に寝たり、一緒に出かけたり、時にはかじられたりもしたがそれも楽しい時間だった。

 彼女はたくさんの人形を持っているが、その中でも私は特別だと自負している。彼女が初めて人形を手にしたのは彼女が一歳の誕生日を迎えた時、つまり私との出会いが初めてだったのだ。

 もしかしたらこれが本当に生きているということなのかも知れない、などとちょっとした戯れ事を考えるくらいには彼女の存在は大きかった。

 今まで人形として過ごしてきた中で、これほど人と関わったことも愛情を注がれることもなかった。もしかしたら人だった頃を合わせても今が一番愛され、幸せなのかも知れない。

 

「このランドセルがいい!」

 彼女はお母さんが持つスマートフォンの画面を眺めていた。画面に映るのは、森の中の透き通った川のような淡い水色のランドセルだ。

私は彼女がランドセルを背負っている姿を想像する。保育園に持っていく、黒色の小さなカバンではなく、背丈に似合わない新品のランドセル。そしてその新品のランドセルに負けないほど眩しい笑顔でお母さんに手をふる彼女。

「小学校いきたいなぁ」

 お母さんはすかさず、たくさんお友達作れるといいねと声をかける。

「うん!」

 彼女は心から嬉しそうな声で返事をした。

 言いようのない感情がどこからか湧いてきたので、何気なく私は垂れ流されるテレビの画面に目を向けた。そして少しだけ人間だった頃を思い出し、暗い気持ちになった。小さく黒いプラスチックでできた私の瞳に映ったのは少年と自殺の文字だった。

 私が人形になったのは逃げてしまった罰なのだろうか。それとも救いだったのだろうか。

 

 桜が咲く三月。棺の中には少女が眠っていた。生前よりも痩せ細り、頬がこけてしまっている。それでも死んでしまったとは思えないほど穏やかな顔をしていた。棺の中には眠る彼女以外に白い菊や淡い青のネモフィラが入れられている。

 そして私も棺に納められている。告別式は両親と祖父母のみで執り行われ、棺は火葬場へと運び込まれた。

 燃えて灰になる身体と遠のく意識の中で彼女に最期の言葉を伝える。

 私にとって、あなたは私の全てでした。楽しいことも苦しいことも、ぜんぶぜんぶ一緒に過ごせて幸せでした。あなたのおかげで愛を知ることができました。あなたが死んでしまうのはざんねんだけど、それ以上にたくさんのものをもらいました。あなたのおかげでわたしもようやくしぬことができるようなきがします。いままでありがとうまた あ え  たら   だ きし    め   

 

 

 

 

       

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