久保翼。
それは日奈にとって気に食わない男の名前である。家が隣同士で、お母さんが「いつもうちの子がお世話になってます」と翼のお母さんに言っているのを見かける。お世話してるのは自分なのにどうしてお母さんは頭を下げているのか、などと日奈はいつも考えていた。
翼の方が歳が一つだけ上であり、それだけの理由で日奈に対して偉そうな態度を取ってくる。例を上げるなら「俺のほうが足が速い」だの「挨拶の声が小さい」だのしょうもないことでいちゃもんをつけてくるのだ。
一方的に言われるままなのも癪なので、日奈も負けじと翼に向かって中身のない悪口を言う。それなのに翼が余裕そうな顔をしているのも気に食わない。だから日奈はいつものように翼に向かって悪口を言いに行くことにした。
翼は学校が終わればランドセルだけ家に置いて、すぐに公園に遊びに行ってしまう。しかし今日は日奈の方が学校が早く終わり、翼は残って六限目を受けている。
日奈は自分の方が早く学校が終わってることに心地よい優越感を覚えた。今日はこのことで煽ってやろうなどと考えながら、自分の部屋の窓から家の外を睨む。窓からは自分の家の玄関とその隣の家、つまり翼の家がよく見えた。
もっとも翼はものすごい騒音と一緒に帰ってくるので、外を眺めなくとも帰ってきたことはすぐにわかる。それでも窓の外を眺めるのは翼の帰宅を見逃したくないからだろう。
いつものように走って帰ってきて、バカみたいに大きな声で「ただいま! 行ってきます!」と玄関を勢いよく開けながら言い放つ。流れる動作でランドセルを背中から手に持ち、言葉と一緒に放り投げた。
その様子を見た日奈は自分も同じように慌てて部屋を飛び出して翼を追いかける。その表情がこころなしか柔らかく見えるのは仕返しできるのが楽しみだからだろうか。
翼が近所の公園にたどり着くよりも先に、日奈が翼の後ろ姿を捉えた。走って翼に追いつくことができたということは自分のほうが走るのが速いということだ。
そんな理論を以って、日奈は心のなかで過去の翼に言い返してやる。現実の翼に言い返したら「そんなこと引きずってたのかよ」と笑われそうなので言わないのだが。
言われた悪口を自分の中で消化してやることで、また一つ自分が優れていることが証明できる。しかし時折感じるモヤモヤした感情はそれだけでは消化できないのだ。翼のことを考えているとモヤモヤが心のなかでヒョッコリと顔を出し、心をくすぐる。
翼のことを考えていたら、またモヤモヤが大きくなってきたので、頭を振って必死にモヤモヤをかき消す。捉えた後ろ姿に向かって、日奈はできるだけ大きな声で叫ぶ。
「やーい、羽のチビ助! 日奈より年上のくせにチビ! ちーび! ちーび!」
羽のチビ助というのはもちろん翼のことだ。前に「ひなって小さな鳥って意味なんだぜ。俺の名前は立派な鳥が持ってる”翼”なんだよ」とドヤ顔で言われて悔しかったので、立派な翼ではなく粗末な羽だと呼んでやることにしたのだ。
日奈の、幼い頃特有の高い声があたりに響く。もともとは学校が早く終わったことで喧嘩を売ろうと考えていたが、モヤモヤのせいで考えていたことが全て吹き飛んだ。呼ばれた本人は慌てて後ろを振り向き、顔を赤くして叫び返す。
「俺はチビじゃない!」
「やーいチビ! 羽のちーび!」
「このやろー!」
「日奈は野郎じゃありませーん」
日奈は翼が怒っている姿を見てなんとも言えない清々しい気分になる。口喧嘩に勝った自分はまた一つ翼より優れていると示すことができた。翼が日奈を捕まえようと走って距離を詰めてくるので、日奈も負けじと必死に逃げる。
これで逃げ切れれば、翼に直接勝ったことをアピールできるのだ。それなら絶対に追いつかれるわけにはいかない。後ろを振り向くと、翼が少しだが距離を縮めてきた。このままでは捕まってしまうと考えた日奈は細い路地を縫って走り抜けていく。
日奈は路地を走ってきたがそれでも翼を撒くことはできていない。後ろを振り返れば翼が着いてきていることがわかる。
「ひな! 危ないよ! 一回止まろっ?」
「いや!」
日奈としては翼に追いつかれることだけは絶対に避けたい。幼いゆえに、時として普通では考えられないことを平気でしでかす。何を考えたのか、あるいは何も考えていないのか、日奈は車が多く通る大通りを走って突っ切っていく。
じゃれ合いの中で追いかけていた翼としては危なくてそんなことは決してできない。翼は日奈が轢かれずに渡り切るのを見て胸を下ろしたが、すぐにその姿が見えなくなる。
日奈は道路を渡りきってから後ろを振り返った。翼は道を挟んだ向こう側でぼーっと突っ立っている。またすぐに追いつかれてしまうと考えた日奈は必死に走り続けた。
走り疲れてこれ以上走れなくなったところで、日奈は足を止めて周りを見回す。後ろを見ても日奈を追いかけてくる人影は見えない。一か八かのチャレンジが上手く行き、翼から逃げ切ることができたのだ。チャレンジというには危なすぎるところはあったが、それを日奈に説いても伝わらないだろう。
さっきまでは逃げることに夢中で周りが見えていなかったが、落ち着いて周りを見てみると自分がどこにいるのかわからない。見慣れない家が立ち並び、日奈には自分が迷子になったように感じた。
しかし、頭に浮かんだその考えをノータイムで否定する。なぜなら自分が迷子になるなんておバカなことが起きるはずないからだ。
と言っても日奈だけではどうしようもない。しばらくその場に立っていたが翼は追いついてくれない。翼がすぐに追いついてくれると心のどこかで期待していた日奈は段々心細くなってきた。
さっきまであれほど楽しかったのに、今では寂しくて仕方がない。立っているのも疲れた日奈は路地の端に座り込んでしまう。
待てども待てども翼は来てくれない。それに比例して心の中のモヤモヤもどんどん膨らんでいく。日奈はボーっとして道を眺めていると、今では珍しい放し飼いの猫を見つけた。
その猫は日奈の目の前を通ろうとするが、一度立ち止まって日奈の方へ一瞥すると「にゃあ」と憐れむように声を出して去っていく。
きっかけはなんでも良かった。日奈はギリギリで泣き出しそうなのをこらえていたが、それももう限界だった。猫の憐れむような一鳴きが日奈の防波堤を押し崩してしまう。
「おうちに帰りたいよぉ……つばさぁ……来てよぉ」
小さな声だったが静かな住宅街ではよく響いた。始めは小さな声だったが、一度流れ出した涙は簡単には止まらない。それどころか次第に泣き声は大きくなり、しまいには泣き叫んでいる。
「うあぁぁぁん! 帰りたいよぉ! ままぁ!」
「ママじゃなくてゴメンな」
しかし大きな声で泣いてたからこそ、気づいてくれる人がいた。
声がした方へ顔を向けると、そこには翼が立っていた。日奈と目線を合わせるために、翼も道路に座り込む。日奈の心の中は先程までの心細さと翼が来てくれた嬉しさでグチャグチャだ。ついでにグチャグチャになった顔を翼の服に埋(うず)めてきれいに拭き取る。
「つばさぁ」
「おう」
「なんでもっと早く来てくれなかったの……」
「日奈が逃げるからだろ」
「寂しかった」
「それはごめん」
翼はぶっきらぼうに受け答えする。照れ隠しなのか、翼はなかなか日奈の方を見ようとしない。それでも日奈は十分嬉しかった。日奈は翼に抱きつきながら嗚咽を漏らす。
翼は恥ずかしがりながらも、自分の胸の中にある日奈の頭を撫でる。自分がお母さんにそうしてもらった時、すごく落ち着いたからだ。
「つばさ?」
「いやだった?」
「ううん」
翼に頭を撫でてもらった時、始めは驚きこそしたが日奈にはとても心地よく感じられた。自分の中のモヤモヤが綺麗サッパリ消えて、代わりにポカポカした気持ちが胸の中を満たした。
「つばさのばか」
「今日は特別にバカでも良いよ」
日奈は前まで、翼のその余裕そうな表情が気に食わなかった。しかし今はそれでも良いように思える。今自分が温かい気持ちでいっぱいなのは家に帰れるから、日奈はそうではないことに気づきながらも、今はそう考えることにする。
日奈は立ち上がった翼に差し出された手を掴んで立ち上がる。二人はその手を離さずに帰路についた。
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