放課後の鍵盤、二人の和音

短編小説

「お疲れさまでーす」

「おつかれー。てか吉田、お前帰らんの?」

「教室に忘れ物取り行く」

「了解、お疲れさん」

 サッカー部の活動を終えた吉田は、和気あいあいとしている仲間とは別の方向へ歩き出した。仲間たちは家に帰るために駅へ、吉田は忘れ物を取りに行くために学校の本館へ。

 サッカー部は部活棟に部室をもらっているため本館に戻らずに直接グラウンドから帰ることができた。町中にある学校のため、グラウンドと本館は土地の問題で別々の位置にある。部活棟に部室を貰えていない運動部、例えばエクストリームアイロン部はわざわざ本館へ戻らなければならない。

 エクストリームアイロニング部とは「いかに厳しい環境の中で、涼しい顔をしてアイロンを掛けられるか」を競う部活である。何故この部活が学校に認められているのか全くもってわからないが、存在するのは確かだ。

 ちょうどそのエクストリームアイロニング部が部活を終えて本館へ戻るらしい。彼女は充電式のアイロンと折りたたみ式のアイロン台を抱えながら、吉田の後ろを歩いていた。部員は黒栖くろすの一名しかおらず、周りには黒栖以外には誰もいない。

 なんとも言えない空気が吉田と彼女の間に流れる。吉田と黒栖の間には少しではあるが面識があるのだ。それは彼女がアイロンを掛けているときのことだった。

 黒栖はエクストリームな場所でアイロンを掛けることを目標としている。学校におけるエクストリームな場所には、サッカー部が練習をしているコートの中も含まれていた。しかしサッカーの試合をしているところでアイロンをかければ、サッカー部の邪魔になることは目に見えている。

 サッカー部側の対応としては、触らぬ神に祟りなしということになっている。しかし吉田はパスをすっぽかして彼女にボールをぶつけてしまった。

 それ以降黒栖は吉田によく絡むようになった。それは今のように、

「吉田くん、今日は私にぶつけなかったね」

「さすがに一回ぶつけると学ぶんだよ」

「皆私を避けちゃうからあまりエクストリームじゃないのよ。吉田くんにぶつけられた時、これこそエクストリームアイロニングだと思ったの」

「だからといってぶつけた側としては気まずさが残るのよ」

 吉田は黒栖との距離感を掴みかねている。そもそもエクストリームアイロニングなんてやっている時点でまともではないのだ。そんな人間との距離などわかるはずがない。

 そんな彼女とよくわからない会話を続けているうちに本館についた。普段、吉田はこの時間に本館にいないため知らなかったが、きれいなピアノの音色が響いていた。しかしその音はどこか寂しい響きをしていた。

 この学校のサッカー部は運動部としては緩めだが、それでも遅くまで部活をしている。より正確に言うならば、黒栖のせいでまともな練習ができないからだ。今は真冬で、日はすっかり落ちてしまい外は真っ暗だ。吹奏楽部や合唱部は活動を終えているはずなのにピアノの音色が聞こえてくるのが、吉田は不思議だった。

 黒栖は吉田の不思議そうな表情を見て、口角を上げて吉田の心の中の疑問に答える。

「あー、吉田くんは知らないのか。この時間はとある女の子がピアノを弾いてるの。興味があれば覗いてみるといいよ?」

「あぁ、ありがとう。見てみるよ」

 吉田は自分の教室に忘れ物を取りに行った後、黒栖に言われたとおりに音楽室へ向かった。音楽室までの廊下に寂しいピアノの音色が漏れ出ていた。吉田は音楽に詳しいわけではないが、それがとても上手な演奏だとわかった。

 音楽室のドアを開けると、そこには同じクラスの白鳥がピアノと向かい合っていた。吉田からは彼女の手元を見ることはできないが、なめらかに聴こえる音色が彼女の運指の美しさを語っている。

 白鳥は区切りのついたタイミングで吉田に恐る恐る声を掛けた。声を掛ける彼女の表情は何かに怯えているようだった。

「ごめん、どうかしたの?」

「いや、きれいな音が聞こえてきたから誰が弾いてるのかなって。白鳥さん、ピアノ弾けたんだね」

「あ、ありがとう。吉田くんはどうして残っていたの?」

「部活終わりに忘れ物を取りに来た」

「そっか」

 彼女は自分に自信がないのかずっとオドオドしていた。彼女の簡素な返事に少しの間、二人の間に沈黙が訪れる。吉田は白鳥の顔を見ながら、なるべく彼女に圧力を掛けないように丁寧に口を開く。

「白鳥さんがピアノを弾いてるところ、近くで見ていいかな?」

「えっと、いいよ。でも面白くないと思う」

「ありがとう」

 彼女は驚いた顔をするが、すぐに顔を緩めて首を縦に振った。吉田は彼女の前、鍵盤と指、そして彼女の顔が見えるところに移動する。吉田と彼女の間には人ひとりほどの間があった。

 彼女は再びピアノの鍵盤に手を掛けて音を紡ぎ始める。先程と同じように淀みのない美しい音がピアノと彼女から溢れ出す。彼女の演奏自体には演劇のような華やかさはない。しかし彼女の音が優しく音楽の世界に誘い込む。

 彼女の指はまるで別の生き物のようになめらかに動き、ピアノはそれに呼応して空気を震わせる。彼女とピアノの間に遮るものは楽譜を含め、なにもなかった。

 吉田は白鳥の演奏はすごいものだと思ったが、それと同時になにか違和感を感じた。これほど素晴らしい演奏をしているのに白鳥は浮かない顔をしていた。

 何かはわからない。しかしふとした瞬間に苦しそうな表情をするのだ。彼女は眉間にシワを寄せ、目を細めて泣き出しそうだった。その表情を彼女は演奏する途中に何度も見せる。

 彼女が苦しそうな表情を見せるのは決まったフレーズを弾く時だとわかったのは、その曲の三回目だった。彼女は同じ曲を何度も弾き続けて、何度も苦しそうな顔をする。吉田はそんな彼女を見ていられなかった。

「あのさ、『私はボク』って曲知ってる? 俺、その曲が好きでさ」

「知ってるよ、少し前に流行った曲だよね」

「弾ける?」

「弾けるよ、私も好きなの」

 白鳥がその曲を好きになったのは、吉田がその曲が好きだったから。彼女は昔から吉田のことが気になっていた。きっかけは彼女たちが幼稚園に通っていた時まで遡る。

 その時はお互いに下の名前で呼び合っていた。吉田の名は拓海たくみ、白鳥の名前は湖月こつき。湖月がピアノを始めたのは拓海の影響だった。湖月が何気なく幼稚園のピアノを触った時、それを眺める拓海の視線は眩しいほどに輝いていた。

 ただ鍵盤を押して適当な音を出すのをすごいすごいと言うのだ。そこにメロディなんてあったものではない。それでも拓海は眩しい笑顔で褒めてくれる。拓海の純粋な言葉と眩しい表情が心地よく胸の中へ染み込んでいった。湖月の胸の中は不思議な充足感で満ちていた。

 湖月はそれから両親に頼み、ピアノのレッスンを受けさせてもらうことにした。レッスンを受けて簡単な曲を弾けるようになったので、拓海の前で意気揚々と「カエルの合唱」を披露する。拓海は前と同じようにすごいと言ってくれた。

 小学校に上がる前までにたくさんの曲を披露して、たくさんの称賛の言葉を貰った。拓海の言葉が嬉しくて、湖月のピアノの練習を頑張ってこなした。その甲斐(かい)あって湖月の演奏はみるみるうちに上達していった。

 そんな中、彼らが小学校に上がるタイミングで、湖月が引っ越しすることが決まった。それは父親の仕事の都合であり仕方ないものだ。湖月は拓海と離れるのを嫌がったが、帰ってきたときに上達した姿を見せることができると思うと少しは引っ越しに前向きになれた。

 湖月は小学四年生の時に地元に戻ってきた。拓海は成長した湖月の存在に気がつかなかったが、湖月はしっかりと気づいていた。拓海からすれば幼少期のなんでもない思い出なのだろう。しかし湖月にとって、拓海との思い出はかけがえのないものだった。

 そんな彼女は「白鳥さん」として拓海と関わっていく中で、拓海の好きなものをたくさん知っていった。その中の一つに彼が好きな曲、私はボクが含まれていた。

 白鳥はふと吉田の方へ視線を向ける。そこには前のような眩しい表情はなかった。彼はただ少しだけ悲しそうな顔をして佇んでいる。白鳥はその表情が嫌いだった。嫌な記憶を思い出してしまうから。

 みるみるうちに上達するものだから、ピアノの先生の指導に熱が入った。両親もより良い先生をつけると言って高いお月謝を払った。湖月は初めは純粋にピアノを楽しんでいたのに、いつしか目的を見失ってしまっていた。両親や先生に言われるがままに毎日毎日ピアノに向き合うだけで、かつて湖月にあった熱量は失ってしまった。

 それでも中学生の頃にはピアノのコンクールで銀賞を取るまでに成長した。両親や先生、周りの大人たちは褒めてくれたが、それだけだった。悔しさが湧くわけでもなく、喜ぶわけでもなく、白鳥の心境はなにも変わらなかった。

 批評の言葉に「ショパンのエチュードは技術的な難しさはもちろんだが、表現力が金賞と銀賞の差を分けた」というものがあった。白鳥はそれを聞いた時、自分にはここが限界だと気づいてしまった。今の自分にピアノに掛ける情熱はないとわかっていたから。

 そして白鳥は両親にピアノを辞めたいことを伝えた。両親はせっかくの才能がもったいないなどと言うが耳を貸さなかった。彼女の中で決意が既に決まっていることに気づくと、彼らは何も言わずに悲しそうな顔をしていた。

 白鳥は吉田から目を離してピアノに向き合う。その曲を弾いたことはないが、大体のメロディは感覚でわかる。彼女は迷いなく鍵盤に手を掛けてまるで一体になったかのように演奏を始めた。先程の曲とは違い簡単なリズムを刻んでいるが、もともとピアノだけの曲ではない。

 吉田は演奏する彼女の姿を見て、綺麗だと感じた。ピアノが上手なのは言うまでもないが、全身のあらゆる部位がその旋律を奏でるために動いている。鍵盤を弾くのは指や腕だけに留まらず上半身で、ペダルを踏むのは彼女のスラリとした脚。なによりピアノを弾く彼女が楽しそうに見えた。

「どうだった?」

「良かった。こんなこと言うのもどうかと思うけど、さっきまで白鳥さん、表情が暗くて心配だった。でも今はすごく楽しそうな顔してる。だから、良かった」

 白鳥が演奏を終えた時、吉田はとても穏やかな顔をしていた。その様子に白鳥は心のうちでホッと息をつく。そして湖月は思い出した。自分がピアノを練習していたのは彼にすごいと言ってほしかったからだと。

 中学生の時にピアノを辞めてしまったものの、高校に入ってから黒栖の勧めで再びピアノを再開したのだ。毎日ピアノを何時間も弾き続けた彼女にとって、一年近くのブランクは相当な痛手だった。

 ピアノを再開した時は元々できていたことが全くできなくなっていて苦しかった。両腕のリズムが合わずにハモりをきれいに弾くことができなかった。また、以前よりも指が大きく広がらずに前の感覚で弾くと失敗してしまうこともあった。吉田が演奏を聞いていた時も同じところで何度も躓きそうになっていた。

「ありがとう」

 湖月は微笑みながら感謝の言葉を伝えた。それは演奏を聞いてくれたことだけでなく、自分の気持ちに気づかせてくれたこと、ピアノの楽しさを思い出させてくれたことについての感謝だ。そしてありがとうの言葉は少しの照れ隠しの意味も含んでいた。

「いやぁ、湖月ちゃんが楽しそうで良かったよ」

「なんで色乃ちゃんがいるの!?」

 なにやら物音が聞こえたと思えば、黒栖が音楽室のドアから顔を覗かせていた。白鳥は黒栖がいることに驚きの声を上げる。

「なにやらエクストリームな気配がしたからね、アイロンを掛けざるをえないよ」

「意味わからないよ」

 じゃれ合う二人をよそに、吉田は黒栖の言葉を反芻する。吉田の中で白鳥が湖月であると脳内で結びつき、一つの結論に至る。白鳥は幼少期にピアノを聞かせてくれた湖月であると。

 拓海は湖月のピアノが好きだった。楽しそうにピアノを触る彼女を見ると、自分も楽しい気持ちになれたから。弾き終えた時のきれいな顔で微笑む姿があの日の湖月の姿と重なって見えた。

「吉田くんもそう思うよね?」

 予期せず白鳥に名前を呼ばれた彼はハッとして声がした方へ目を向けた。湖月と視線が重なり、頬が朱に染まる。

 そして二人の鼓動が鳴った。

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