恐怖と温かさ
「ヴェリドくん、貴方にお客さんですよ」
顔をあげるとシグノアさんが笑顔でこちらを向いているのがわかった。前まではその笑みはとても優しく暖かいものに感じた。しかし今はそのように感じることはできない。きっと聖女がボクに微笑んでみせた笑みと同じ類のものだろう。
「そうですか、ヴェリドは体調が悪いとでも言っておいてください」
ボクの体調が悪いのはあながち間違いではない。実際身体は傷だらけで、動けば全身がひどく痛む。身体の傷が痛むたびに死んだヴァンくんの声を、死に様を思い出してしまう。
彼を生かすためにはどうしたら良かったのだろうか? 何がヴァンくんをあそこまで追い詰めてしまったのだろう? ボクがもし代わりに死んでいたらどうなったのだろう?
「彼は貴方にお礼がしたいそうですよ。名前はヨープスと仰っていました」
ヨープスさん?
シグノアさんの口からヨープスさんの名前が出てくるとは思わなかった。しかしなぜだかわからないが、ヨープスさんとなら話せる気がした。
「今行くとお伝え下さい」
ボクはシグノアさんにそう言って自分の部屋に戻る。それは決して引きこもろうとしているわけではない。ボクの体にある無数の傷を隠すために、きちんと服を着ようと思ったのだ。
いざ無難な黒い服を着て部屋の外に出ようとするが、扉を開く手が恐怖で動かない。怖くて仕方がなかった。人殺しの穢れたボクが人前に出ることは許されない気がするのだ。咎人のボクは名前がなかった頃のように暗い部屋で一人でいるべきだと心のどこかで考えてしまう。
汚いボクを笑う人々が怖い。きっと誰もボクのことなんか見ていない。きっと自分たちの会話の中で楽しく笑っているのだろう。そんなことはわかっている。それでも皆がボクを嘲り笑っているような気がしてしまうのだ。
そんなことを考える頭とは反対に、ヨープスさんならボクの全部を知った上で笑い飛ばしてくれるかもと言った淡い幻想が浮かぶ。何も持たないボクに無償の善意を与えてくれた彼ならと。ボクが貰ったスープにはヨープスさんの温もりがあったのだ。
今一度心に活を入れて金具を握る。
「お待たせしました」
「いや、大丈夫だ。呼んだのはこっちだしな」
「ありがとうございます」
「感謝したいのは俺の方だ」
「ボクがなにかしましたか?」
ボクはちゃんと話せているだろうか。ボクが話す言葉が自分のものとは思えないほど冷めて聞こえる。形だけの愛想笑いを顔に貼り付けているはずだが、ヨープスさんからはどのように見えているのだろう。
「ヴェリドから貰った葉巻があっただろ? アレのおかげでリルの体調がみるみる良くなったんだよ」
「あぁ、でもアレはお守り程度のものですよ」
「それなら本当にアレがリルを守ってくれたってことだ。アレを焚くまではリルの体調は全く良くならなかったんだ。ここで貰った薬を飲ませてもだ」
「今リルちゃんはどうなんですか?」
「すこぶる元気って感じだ。最近じゃ言葉をたくさん覚えたみたいで、ずっと喋ってるぞ」
ヨープスさんはそう言って豪快に笑う。ボクも彼の笑いに釣られて笑みが漏れた。それは先程までの作り笑顔とは違う心からの自然な笑みだった。
「良ければリルとマリーに会ってやってくれないか? マリーも直接ありがとうを言いたいって」
マリーさんというと確かヨープスさんの奥さんだった気がする。ボクがしたことなんてちっぽけなことなのにここまで喜んでもらえるとは思わなかった。
「もちろん無理にとは言わない。ただ良ければ来てほしいってだけだ」
「えぇ、こちらこそ行かせてもらいたいです」
気づけばボクはそんな事を言っていた。
善は急げということでボクはヨープスさんに連れられて彼の家へ向かう。街には人々が溢れかえっていた。どの人の顔を見ても楽しそうな表情をしていた。
ふと子供たちが広場を駆け抜けていくのが見えた。人が多い中で走るのは危ないことだが、街の人たちは穏やかな顔で見守っている。時折彼らに注意する声も聴こえるものの、それも優しい声で子どもたちを気遣うものだとすぐにわかった。
大通りから細い路地に入ってしばらく歩くとヨープスさんが一つの家の前で立ち止まった。
「ここが俺の家だ。上がってくれ」
「お邪魔します」
「マリー、帰ったぞ」
ヨープスさんがそう言って玄関を開けるが、家の中からの返答がない。ボクはヨープスさんの後ろに付いて彼の家に足を踏み入れる。足を踏み入れた瞬間、冷や汗が背中を伝った。なにもないはずの家なのに、なにかがボクの中で警笛を鳴らす。
ヨープスさんと一緒に居間に入るが、マリーさんやリルちゃんの姿が見えない。ヨープスさんがいない間になにかあったのだろうか。
「マリー?」
ヨープスさんが彼女らの姿が見えないことを疑問に思って再び声を出す。
「あら、おかえりー」
しかしそんなものは全くの杞憂であった。一人の女性が居間と他の部屋をつなぐ廊下からひょっこりと顔を出して、気の抜ける挨拶をしてきた。
「すみませんね、お客さんにちゃんと挨拶できなくて。ちょっと火から目を離せなくて」
「いえ、大丈夫ですよ。それより火を見ていなくていいんですか?」
「あ! いけない!」
彼女は慌てた表情でパタパタと音を立てながら短い廊下を走っていく。その後すぐに転んだのか、大きな物音がした。
「あれが俺の奥さん、マリーだ」
こんなもので驚いていたら大変だぞとヨープスさんが苦笑しながらボクにそう言った。
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