一人の死者と幾千の魂 48話:おてんばマリー

一人の死者と幾千の魂

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おてんばマリー

「あー、やっちゃった……」

 台所に戻ったマリーさんの口からそんな言葉が発せられる。彼女の声色から何かが起きていることはわかるのだが、その様子はわからない。

「リル、怪我してない?」

「だいじょうぶ」

 リルちゃんを見ないと思っていたが、どうやらマリーさんと一緒に台所にいたようだ。

「すまん、ちょっと台所の様子見てくる。申し訳ないんだが、そこの椅子に掛けて待っててくれないか?」

「あ、はい」

 ヨープスさんもマリーさんたちの様子が気になるようで、ボクにそんな提案をしてきた。ヨープスさんは呆れ半分、申し訳無さ半分といった感じで苦笑いしている。というか笑うしかないのだろう。

 ボクは言われたとおり、椅子に腰を掛けた。これと言ってやることもないので、目の前にあるテーブルに腕を放り出して、ぼんやりと部屋を眺めてみる。

 明るいオレンジ色のレンガ造りできれいな家なのだが、ところどころ横にまっすぐ傷が入っている。様々な家具はそれらの傷を隠すように配置されている気がした。

 壁には何を描いたのかわからない絵のようなものが吊るされている。絵のようなものという曖昧な印象を持ったのには訳がある。それは色々な線が複雑に絡み合っていて見る者に色々な印象を抱かせる。何を描いているのかわからない抽象的なものだったので、絵という認識に至らなかったのだ。

 しかし改めて考えてみれば、リルちゃんが描いた、ヨープスさんやマリーさんにとって思い入れのあるものなのだろう。その絵は大切に木製の額縁に入れて飾られてあった。二人がリルちゃんに注ぐ愛情の強さを感じることができて、心がほっこりする。

「……」

 ふとした思考の隙間にヴァンくんが残した呪いがボクを蝕もうと入り込んでくる。人殺しという言葉がボクの中で何度も繰り返される。償いたいという気持ちをあっさりと切り捨てられた時、その気持ちが自己満足であると知った。それを知ってしまったボクには何をすれば良いのか全くわからなくなってしまったのだ。

「悪いな、待たせちまって」

 その声が暗い思考からボクの意識を現実に引き戻す。台所から出てきたヨープスさんは腕にリルちゃんを抱いていた。その後ろには料理が完成したのか、お皿を持っているマリーさんが控えている。

 ヨープスさんがリルちゃんを席に座らせようとするが、リルちゃんはヨープスさんにしがみついてなかなか離れようとしない。

「パパぁ、あれだぁれ?」

「人のことをあれって呼んじゃだめだぞ? あの人はヴェリドさん。パパとママ、それにリルの大切な人だ」

「……ゔぇりど?」

「どうしたリル? 初めての人だから緊張してるのか? すごい熱いしドキドキしてるぞ」

 リルちゃんは恐る恐るといった様子でボクの方へ視線を向けながら、ヨープスさんに問いかけた。そしてリルちゃんはボクに小さな指を指して、たどたどしく名前を呼んだ。

 リルちゃんが感じているものは緊張なんて生易しいものではない。動悸が速くなり、意識が支配されそうになるその現象をボクは知っている。

 ただそれを認めたくない自分が心の中にいるのだ。それを認めてしまえば、また暗い自分が表に出てしまいそうになる。しかしそんなボクを嘲笑うかのようにその声はボクの中に響き続ける。

――分かたれた俺を一つに! 奴から奪い返せ!

「良い、リル? ヴェリドさんはね、リルの病気を直してくれたすごい人なんだよ。今リルがこうしていられるのもヴェリドさんのおかげよ。ね、ヴェリドさん?」

「……」

「ヴェリドさん?」

「……あぁ、すみません。ぼーっとしてました。ボクは何もしてませんよ」

「そんな謙遜しないでください。私たちの恩人なんだから」

 そんなこと言わないでください、やめて、やめてください。ボクは何もできなかったんです。救えたと思ったはずのものですらダメなら、ボクはどうしたら良いんですか?

 嬉しそうな彼らに本当のことなど言えるわけがない。本当は病気が治ったわけではない。一度死んで生き返っただけなのだ。

「本当に何もしてないですよ。あの葉巻には病気に効く成分なんて入ってないんですから」

 むしろそんなものを渡して救った気になっていた傲りが憎い。

 葉巻を渡した時はヨープスさんたちの気分が晴れればいいと思って渡した。そしてヨープスさんたちは喜んでくれた。それだけで良かったはずなのに、リルちゃんを救ったと勝手に信じて、勝手に裏切られて絶望してる自分が嫌いだ。

「まぁまぁ、話はそこら辺にして、スープでも食ってくれ。と言っても作ったのはマリーだが」

「……お二人は食べないんですか?」

「さっき吹き溢しちゃって……。遠慮しないで食べてね!」

 ボクの前に出されたスープを見ると、透き通った液面にボクの姿が揺らめき、ぼやけて映っていた。正直食べる気はしないが、ボクは無理して湯気が出ているスープをすくって口元へ運ぶ。

「あち」

「あはっ!」

 あまりの熱さにボクは声を出して驚いてしまう。舌先が熱でヒリヒリする。そんなボクの姿を見ていたリルちゃんがスプーンを握ったまま可愛らしく笑った。ボクもなんだか可笑しくなって釣られて笑ってしまった。

「笑っちゃダメでしょ? ほら、リルも気をつけないとあちってなっちゃうよ。ふーふーしようね」

「ん」

 気を取り直してスープを口にする。今度はきちんと息を吹きかけて少し冷ましてから口に含んだ。しかしリルちゃんとアークのことが頭を占めてしまい味が良くわからなかった。

「お味はどう?」

「とても美味しいです」

 ボクは苦し紛れに薄い感想を述べた。

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