新学期の登校日、その前日にAはベットの中で震えていた。多くの人が喜びや期待で胸を膨らませるのに対して、Aが感じていたのは恐怖だった。また今年も新たな知らない人たちに囲まれて、学校に通わなければならない。
多くの人たちに囲まれると言っても、Aが囲まれているわけではない。生徒たちの中心から外れた誰からも見られない場所で、独り過ごすのだ。
独りで過ごすのは辛くない。周りに合わせるのは疲れてしまうし、そもそも人と話すことが億劫だ。特に趣味もなく多くの時間を一人で過ごすAは、ただ学校に行くためだけに学校に通っている。
新年度になれば自分のことを知らない社交的な人たちが自分に話しかけてくる。それに返答することすら難しい。彼らは自分に何を求めているのだろうかと考えて、会話に間が生まれていることに気がつき、なにか話そうとしてうめき声を上げる。
初めの頃は皆それを笑ってくれるのだ。
「はじめましてだと緊張するよね」
緊張した素振りを見せない彼らに言われても、その言葉はなんの説得力も持たない。はじめましてではなくとも、人と話そうとするだけで言葉に詰まる。実際には会話になっていないが、Aとしては会話をしようと藻掻いているのだ。
そんな風にも藻掻く時間が苦痛で仕方がなかった。春休みという誰とも話さない期間を経て、その傾向は顕著に現れる。もともと知っている人ですら、一週間も経てば他人に逆戻りしてしまう。
ベットの中で暗い思考とシュミレーションが繰り返される。学校に行きたくない気持ちとまともに会話ができない自分を変えたい気持ち、二つの気持ちが混じり合ってどうしようもなく泣きたくなる。
早く寝ようと目を瞑るも、まぶたにキョドって話せない自分の姿が浮かぶ。そんな自分の姿に罵倒の言葉が自分の口から淀みなく流れ出る。一人なら言葉などいくらでも出てくるのに、人がいるだけで途端に言葉が出てこなくなる。
しかしAにも友達と呼べる子はいた。うまく話せない自分に根気良く話しかけてくれた優しい子。初めの頃は上手く会話ができずとも、段々と会話の形が出来上がっていった。
その友人は特別優しかった。誰とも隔てなく接して皆から好かれるような子だった。顔だって良く、異性からとにかくモテた。そんな優しい子が自分のことを友達だと呼んでくれるのは奇跡だと感じている。Aにとって、夢だと言われれば素直に信じてしまうくらい、現実味がないことだった。
Aにとっての唯一の友人でも、友人からすれば数いる友達の一人でしかない。友人は優しい。他にもたくさんの友達がいる。それに比べてなんの取り柄もない根暗な自分の存在が小さく醜く見えてしまう。
輝かしいその友達の存在を誇りに思うが、時々その輝きに身を焼かれてしまいそうになるのだ。
一緒にいればどれほど心強いだろうか。コミュニケーションを取ることに関して左に出るものはいないと自負するAはいつも側にいる友人に支えられていた。
クラス替えで友人と別れてしまうかもしれない。それが心配で仕方がないし、そうなってしまえばこれからのクラスでどうなるか、わかったものではない。
その一方で仄かに喜んでいる自分がいるのだ。輝かしい友人の元で醜い自分を晒さなくて済む。そんな考えがよぎって、慌てて否定する。ただでさえ醜いのにこれ以上堕ちてしまえば、人間ではない何かになってしまいそうだった。
昨年学んだ「山月記」の李徴が虎なら自分はどんな獣だろうか。獣ですらなく泥に塗れた巻き貝にでもなってしまいそうだと自虐的な思考に沈む。
自虐という甘美な泥に沈むのはなんとも心地が良かった。誰とも話さなくてすむ暗い泥の中で小さく身を潜めて生きる。周りは泥にまみれて何も見えず、まるで自分だけの世界のように思えるのだ。いっそのこと巻き貝になってしまわないかとさえ思う。
だからこそ泥に差す光は自分には眩しすぎるのだ。そんな光に当てられてしまえば、醜く藻掻くしかないではないか。身動きすらろくに取れない泥の中で、そんなものは関係ないと手を引いて前を行く友達。
泥に溺れる姿を見られるのは苦しい。見られるのならきれいでありたい。苦しみに藻掻いている姿を頑張ってて偉いなんて言わないでほしい。周りの人たちが当たり前にできていることなのだから、できないことをできるようにすることは当たり前なのだ。
そんなことを考えながら微睡みに沈む。
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