一人の死者と幾千の魂 94話:リルリットの樹

一人の死者と幾千の魂

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 それは復讐者としてのアークではなかった。アークの宿主たるヴェリド、怪物に成り果てたソレが死したのなら、アークはその断片を持つものに統合される。

「……ッ!」

 この世界で唯一アークを宿す少女、リルリット。彼女にアークの全てが集う。聖女とクロウ無き今、彼が憎む者は無く、ただ竜としての機能がリルリットの中で発現した。

 リルリットの身体を突き破り、急速に樹木が成長していく。ボロボロの身体は次第に硬くなり、幹となる。伸びて荒れていた髪は細かな枝木となり、その末端に葉を付けている。

 箱庭にある大樹が役目を終えようとする中、リルリットが新たな贄となったのだ。リルリットは周囲の魔獣を巻き込み、巻き込まれた魔獣は大樹の統制の元で再び外界に放出される。リルリットの木の成長はとどまるところを知らず、次々に魔獣を巻き込んだ。

「二人とも! 流石に争ってる場合じゃないですって!」

 ジーンは未だ争い続けるディアフォンとガーリィを諌める。急速に成長し始めた大樹に、さすがのガーリィも目を奪われる。ガーリィからの攻撃が途絶えたことで、ディアフォンも落ち着きながら口を開いた。

「こりゃあまずいねぇ。白髪の旦那が無事だと良いけど」

「本当に心配してます?」

「いいや?」

「お前殺すぞ?」

 ディアフォンの心のこもってない言葉にガーリィが突っかかる。だがディアフォンの言葉に心がこもっていないのも無理はない。シグノアが移動する音が空気から伝わってきたのだから。

「旦那、オジサンたちはどうする?」

 二人はぶつぶつと呟いているディアフォンを怪しげな目で見た。何か誤解されているような気がするが、今は気にせず空気を震わせやりとりをする。

「白髪の旦那の方に行くよー」

 間伸びする声に苛立ちながらもガーリィはディアフォンに従う。踏みしめる大地がひび割れているのは気のせいではないだろう。ガーリィをガーリィたらしめたのはこの男が原因でもあるのだから。

「シグノア、何があった……!」

 ガーリィは更地になった一帯に驚きを隠せない。近くに感じる大樹も実際の距離にすれば程遠い。そうだというのに、遠目から見てわかるほど顕著な成長を、あまりに大きな樹は未だに続けている。

 大樹が吐き出した魔獣は尋常ではないほどの瘴気を抱えていた。リルリットが持つアーク、崩壊と呼ぶべきその力が魔獣たちにも宿っているのだ。魔獣たちが跋扈する大地は都市であったとは思えないほど荒廃していた。

 ガーリィはシグノアへ目を向ける。シグノアは一人の青年を抱えていた。黒く見窄らしく見えるそれは紛れもなくヴェリドであった。ガーリィの瞳がシグノアの目を捉えると、シグノアは目を伏せて首を振った。

「何があったんだって聞いてんだよ……!」

 ガーリィの声は震えていた。目尻に涙が浮かんでいる。涙が頬を伝った。ヴェリドという存在が自分の中で大きなものになっていたのだと、ガーリィは失ってから気づく。

 ガーリィもシグノアも、ヴェリドの面倒を見るうちに、自身の考えを改めるようになった。純粋な彼の姿は魔人の心に温もりを与えたのだった。

 それは力を振るうことに対しての葛藤や命を奪うということ、人を信じるという心。全部魔人になって捨ててきたものだった。

 全てを削ぎ落とし、絶望の果てにたどり着く境地もある。しかし大切なものを抱えながら生きる道もあったのだと思い知らされた。失い、転んでも立ち上がる彼はまさしく救いの名に相応しい。だからこそ彼が息絶えた衝撃は計り知れない。

「私が、見誤ったんです。今までずっと」

 アークとクロウ、聖女、それにフェイレル。予測できない因子が多すぎたのだ。もはやここから事態が好転することはない。箱庭は崩れ、生き残る人民は輪廻の外側に放り出されてしまう。無闇矢鱈に殺しても、息絶えた聖女が魂を巨木に返すことはできない。

 リルリットの樹が竜としての機能を持っている可能性もあるが、現状はそれも期待できない。一度竜と接続したことで、シグノアの魔力である心覗が拡張され、魂の存在をはっきりと近くできるようになった。しかし魔獣に殺された人々の魂は輪廻の環に還ることなく、大樹の成長に消費されようとしていた。

 シグノアにできるのは終わる世界を前に、魂の行方を見守ることだけだった。

「……ふざけるなよ」

 ガーリィがシグノアの胸ぐらを掴んで睨む。ガーリィはシグノアの表情を見上げた。シグノアの目には諦めの色が浮かんでいた。魔人としての感性がこの瞬間の敗北を悟ってしまったのだ。仄暗いその瞳は、かつての名もなき少年に浮かぶそれに似ていた。

「なんで勝手に諦めてんだよ、ヴェリドの最期を見届けたんだよな? お前は何を見たんだよ、救いたいと思った者たちを救えなかったことに対する諦めか、どうしようもない千年の絶望か、くそったれなこの世界から居なくなれた幸せか? 知らねぇなんて言わせないからな」

「……」

「やることは一つだろ。ヴェリドは諦めてなんかないはずだ。これっぽっちもな」

 シグノアは唇を噛む。ガーリィの感情をあらわにする姿を見て羨ましく思っていた。シグノアは昔から感情の何たるかを知らなかったからだ。魔人となってからも曖昧な感情というものを実感できていなかった。

 だが、彼と出会ってから胸を刺す痛みを知った。ぬくもりを知った。今ならはっきりと分かる。胸にある熱いものが感情だというのだと。そしてその熱さを言葉にした。

「救いましょう、リルちゃんを!」

 シグノアは思う。この感情はヴェリドがくれたものだと。それならヴェリドがくれた感情に報いなければならない。ガーリィは胸ぐらを掴んでいた手を緩める。

「わかってるじゃんか」

 ガーリィは無邪気な少年のように笑った。

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