一人の死者と幾千の魂 93話:一人の死者と幾千の魂

一人の死者と幾千の魂

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 怪物と化したヴェリドは闇を纏った腕で掴みかかろうとする。聖女はその手を躱さず、ただ悲しげな目でヴェリドを見た。

「アアアアァァァァアアアア!!!」

「ごめんね、フェイレル。私には守れなかったよ」

 フェイレル。その名前が怪物が何者かを思い出させる。目覚めぬ自我にヴェリドという仮初の名前を与えられ、クロウやアークに塗りつぶされた彼は、己の意思で微かに喉を震わせる。

「タ、ンシー……?」

「そうだよ、私だよ。タンシーだよ」

 聖女は慈しむような瞳で目の前の怪物を見つめる。とうの昔に捨てた名前で再び呼ばれる日が来るとは思ってもいなかった。自分が愛した人の生まれ変わりに、そう呼んでもらえただけで彼女の心は救われたのだ。

 彼女はまるで二人で名前のない花の海を見た時のように、美しく優しい気持ちに包まれた。彼女はその花にオルフィと名付けた。その花言葉は永遠の平和と繊細な愛情。失われたはずの熱情が再び頬に差す。

 二人の距離が少しずつ千年前のあの日に戻りつつある。だが、彼の中に巣食う魔人たちが許さなかった。

「あぁァァぁアア!!」

 鴉の黒い翼が騒めく。世界の根源たるアークと鴉が混じり合った闇が身体を縛って離さない。フェイレルとタンシーの再会は果たされず、悲壮と絶望が牙を向く。

 クロウやアークだけじゃない。竜に囚われた者や魔獣に作り変えられた者、アークに結びつき離れなくなった者。全ての意思がフェイレルの敵だった。

「大丈夫。今、楽にしてあげるから」

 聖女はそう言うと痛みに悶えるフェイレルに灼けるような光を放つ。クロウの翼がフェイレルの身体を突き動かす。心臓を目掛けたはずの光線はフェイレルの肩口を貫いた。

 身体に穴が空いたと言うのに痛みはなかった。もしかしたら痛みを感じる機構など無く、感情の器としてしか機能していないからかもしれない。

 貫かれた身体を埋めるように闇と黒がまとわりつく。フェイレルには内なる意思に抵抗する力など残されておらず、黒と化した魔剣を携えた怪物が聖女を襲う。

 怪物が狙うのは聖女の首。でたらめな剣筋から放たれる殺意の剣は黒で膨張し輪郭がはっきりしない。聖女は大きく距離を取ると同時に鮮烈な光を放つ。

 目眩しのための光だったが、眼窩から溢れる闇を前に意味などなかった。聖女が退くと、怪物は後を追うように空を駆ける。闇が線を引き空に黒が漂っていた。

 聖女は迫る怪物の速さに驚愕しながら高度を上げていく。同じく下から狙ってくる怪物に向かって、御力で大地と見紛うほどの岩石を作り出す。不可避の一撃のはずだったが、怪物は咆哮と共に剣を振るい、岩石を打ち砕いた。

 その衝撃で魔剣が砕け散るが、闇と同化した魔剣は何事もなかったかのように再生した。怪物は一瞬聖女を見失うが、その身に宿す瘴気が嫌というほど主張している。夥しいほどの瘴気がある方へ視線を向けようとするが、その時にはすでに遅かった。

 聖女は岩石が砕かれると同時に化け物に立ち向かったのだ。周囲が歪むほどの熱量と輝きを持った光の球を手の中に収め、怪物が気がつく前に、胸の傷に押し当てた。

――アァァァァアアア!!!

言葉にならぬ絶叫が周囲に響き渡る。全身から闇を垂れ流し大地に引かれ落ちていく。先ほどよりも一層濃い黒色が中空を染めていった。

 一方の聖女も無事では無かった。一千年の間酷使し続けた魂に、度重なる御力の行使は無理があった。これ以上滞空することが困難になった聖女はふらふらと高度を下げた。

 地に落ちた怪物に聖女が近づきそっと語りかける。

「ごめんね、みんな守れなかった……。みんなボロボロなのに、誰一人として救われてないの。私たちの千年は、なんだったんだろうね……?」

「……ッア、あ……ぁァ、ア」

 聖女は怪物の手を取りながら、声を震わせた。もう、限界だった。血か涙か分からぬ何かが頬を伝う。視界は霞み、その人の最期を見届けることもできない。

 対する怪物は目の前の女性から零れる何かに溺れるように、掠れる喉と動かぬ体で不規則な息をする。

「さようなら。フェイレル」

 聖女は暖かな光を怪物に注ぐ。その光は元々フェイレルのものだった。優しく燦々と注ぐ希望の光。それをニアレイジに奪われ、本当の形が失われていた。しかし今、本当の光が世界にあった。

 一人の少年が背負う運命が、命の終わりと共に途絶える。その身に宿す数えきれないほどの魂も大樹に還ろうとしていた。

 まさしくそれは一人の死者と幾千の魂。

 聖女によって注がれる光と魂が織りなす光景はまさしく救いであった。しかし行く当てのない復讐者はそれを望まない。大気に満ちる闇は、光に照らされながらも個を確立した。

――逃げるなんて許さない!

 聖女にとっての千年が苦行であったように、クロウにとっての千年もまた苦痛に満ちていた。その復讐が逆恨みだとしても、意味がないとしても、それを為さねば千年が無に帰してしまう。

 このまま放っておけば聖女の魂は崩壊するだろう。死を望むだけならそれでも良いのかもしれない。だが闇たちが望むのは復讐であり、満たされぬまま死ぬ必要がある。

 だからこそ闇は蠢く。光を注ぐ聖女に一筋の闇が突き刺さる。聖女は脱力して怪物の死体に覆い被さるように倒れた。

――やった。やったぞ。殺した。この手で殺したんだ。はは、ははは。ははははは!

 クロウの描いた悲劇は為された。ヴェリドがアークという力を得て、聖女はその前に死した。これでクロウが描いた物語はハッピーエンドを迎えた。千年前の軋轢は全て清算されたのだ。

 だからこれは時代の最後の遺産である。

 アークが一人の少女を捉えたのだ。

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