一人の死者と幾千の魂 89話:死の間際、幼子を想う

一人の死者と幾千の魂

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 ヴェリドは自らを蝕む闇に身を委ねながら怪物に視線をやる。多くの魂が混じり合って潰れた表情に、喜びと怒りを見出した。その喜びは生きることを諦めたものにとっての救済が得られる事への安堵だ。

 しかし怪物に浮かぶ歓喜は、すぐにアークの怒りに塗りつぶされる。アークの怒りが怪物を覆い、怪物は黒く染まる。怪物は黒い身体を怒りのままに振るうが、怒りをもたらしたアークですら自身の怒りを正しく認識できていないようだった。

 生前の願いであるシリオンを取り戻すと言う願いは永遠に叶わない。恨むべきは悲劇の脚本家であるクロウであることに疑いはない。急速に自我を取り戻しつつあるアークだが、不完全な彼は力を抑えることを知らない。

 ヴェリドは蒼藍の魔剣を生み出し、無差別に破壊する肉塊を諌めるかのように魔剣の楔を打ち込む。怪物はそれを避けるかのように変形しながらも肉鞭を振り続けた。何本かは怪物に躱されるが、多くの魔剣は怪物に突き刺さる。

 怪物を斬るたびにめまいがする。自分が誰で、何者なのか分からなくなる。末端の肉を斬っても本体が衰える様子はない。ヴェリドは埒が明かないと判断し、魔剣を右手に携えて駆け出そうとする。

「ヴェリド」

 サーノティアは小さくその名前を呼ぶ。駆け出そうとしたヴェリドはその声に引き止められ振り向いた。

 後方に投げられた腕から徐々に再生し始めたサーノティアだったが、脚に負った傷口は肉体を再生しても治っていない。下半身の大半が肉塊に飲まれ、新たに再生した脚の感覚はなかった。

 サーノティアが自身で突き刺した箇所からは流血していた。サーノティアは立ち上がることすらできず、怪物と己の血肉に沈んでいる。

「無理するな」

 どの口が言うのだろう。サーノティアはそう思いながらヴェリドの身体を見て悲しげに微笑む。

 ポッカリと穴の空いた右目には蒼が灯り、その奥から闇が溢れている。その闇はヴェリドの顔を覆い、表情を塗りつぶしていた。ヴァンの呪いでろくに剣を握れぬ腕には闇がまとわりつき、魔剣は闇と腕と一体になっている。

 肉塊も怪物だが、ヴェリドの姿も負けず劣らずの醜悪さだ。彼にリルリットを救いたいという気持ちはどれだけ残っているのだろうか。アークと結びつけば結びつくほど、狂気が体を蝕むのだ。あれだけのアークを取り込めば目の前の肉塊のようになっても不思議じゃない。

「私を殺して」

 サーノティアは初めて自身の願いを口にした。凄惨な死を迎え、生を望んだ彼女は、そう願ったかつての自分を呪った。痛みだけが繰り返され、死ねない苦しみがサーノティアを襲い続ける。

 ヴェリドとの初めての邂逅は今でも思い出せる。なぜだか分からないが、彼なら自分を救ってくれると信じられた。力無き彼の、祈りとも呼べる純情こそが狂った自分を殺せるのだと。

 今の彼にどれだけ自我が残っているのかは分からない。どちらにせよ肉塊に呑まれれば、サーノティアを苦しめるアークは怪物に移る。だが、サーノティアはヴェリドを信じていた。

「その剣で私を貫いて」

 クロウに言いつけられ、ヴェリドのために集めたアークは彼のものだ。彼は鴉が考えた胸糞悪い悲劇の主人公で、その結末を動かすのも彼だから。

 どうなるか分からない。ただ、どうせこのまま死ぬのなら、彼に殺されたい。

「あぁ……」

 ヴェリドの口から漏れた声は肯定か吐息か。それ以上の言葉はなく、蒼藍の魔剣が生み出される。まとわりつく闇は瘴気でも御力でも、魔力ですらない。その闇は世界の根幹に何よりも近く、千年続く箱庭の結末を見届けるに相応しい。

 サーノティアはその闇の正体を知らない。しかし、それを見ているだけで自分の中の理性と本能の両方が警笛を鳴らしている。黒がまとわりつく魔剣はサーノティアに伸び、そのまま彼女を貫いた。魔剣に貫かれた彼女の魂は彼の元に移っていく。

 今までヴェリドと呼ばれていた彼はアークや他の多くの魂と結びついた。その彼は本当にヴェリドのままなのだろうか。リルリットが彼の姿を見たら何を思うのだろうか。自分を救うために傷つき続ける彼を悲しげな表情で見つめていた少女。自分を守るために戦い続ける彼のためなら、苦しみの中で微笑んだ少女。

 少女のことは深く知らないが、その関係がただならぬことは分かる。リルリットを殺そうとしたサーノティアが彼女を憂うなど、なんたる矛盾。

 混じり合った彼と一つになろうとするサーノティアの思考は薄れ始める。血肉に狂った自分が、今更人間らしい後悔を重ねても仕方がないと、サーノティアは自らを嗤う。だがしかし最後に願うのなら。

――クロウ無き世界で貴方たちと出会いたかった。

※×※×※

 蒼藍の魔剣に貫かれたサーノティアは動かない。彼女を不死たらしめる再生は起きず、物言わぬ屍となった。流れ込む魂の奔流は酩酊感をもたらすが、それに酔う間もなく闇が彼を突き動かす。

 全身は脱力していて、覆う闇に導かれるように肉塊へ向かう。肉鞭が彼を襲うが、彼はそれを切り払うことはなかった。彼からも闇が伸び、互いの闇がぶつかり拮抗する。

 拮抗に勝つのはアークがどちらを依代とするかだけだ。

 本来ならば。

 蒼藍の魔剣は魂を斬り、魂は剣身と共に道を歩まんとするのだ。蒼藍の魔剣が肉を斬るたび、魂たちが彼の元に流れ込む。その力はアークの魂にも及ぶ。

 どれだけの時が経ったのだろう。きっとそれは長い時間ではない。肉塊は動かなくなり、ヴェリドと呼ばれていたモノは一瞥もせず、天井を見つめている。

 アークという殺意は一人の少年に集まった。

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