ヴェリドは紫紺の魔剣を手に取り、静かに目を瞑った。ナーデンやぺぺが竜と対峙する中、ヴェリドは全ての感覚を遮断してその魔剣に意識を集中させる。
その魔剣で斬った肉の感触を、ヴェリドは今でも鮮明に思い出せる。魔猿の、ヴァンの家族の悲劇は今でも夢に見るほどだ。しかし失われていく熱も命も悲しみも、全ては過去になり風化してしまうのだろう。
だがもし、もしもそうでなかったとしたら。全ての悲劇が、命がこの魔剣に留まり続けているとしたら。きっとそれは魂がヴェリドと共にあるということだ。
ヴェリドに握られた紫紺の魔剣はその刀身の色を次第に変え始める。深い紫紺は鮮やかな藍へと変化した。その魔剣に瘴気の淀みは感じない。魔力や瘴気と呼ぶにはふさわしくないその力は御力とも違った。
ヴェリドは真なる魔人になるまでは、他者の命を奪うことに激しい抵抗があった。今でも生物の死には嫌悪感を覚える。しかしその死が意味のあるものであれば、少しは認められるようになった。
意味のある死とは何だろうか。それは誰にも分からない。大切なのはヴェリドが納得できる理由があるかだ。ヴェリドはその剣が救いになればと考えた。
瘴気に苦しむ魂を救うための剣。瘴気と魂を切り離し、新たな魂と切り結ぶ剣。
救済の儀で用いられたサイアードの光剣とは違う、本当の救いのためにヴェリドは紫紺の魔剣を構える。戦場の全ての魔剣が藍色の、蒼藍の魔剣へと変わっていく。魔剣で貫かれた魔獣たちの瘴気と魂はヴェリドに流れ込む。それだけではなく、カーター墓地に眠るいくつもの魂がヴェリドを見つめる。
シリオンの魂もアークの欠片も、全ての存在がヴェリドと一つになろうとしていた。
魂たちは踊るようにヴェリドの元へ集まり、結びつく。魂が踊り血が這う墓地に、爽やかな風が吹いた。それは魂たちの祝福なのだろう。あるいは彼らの喜びかもしれない。
ヴェリドはゆっくりと目を開く。そこには隠しきれないほどの青い光があった。
灰に塗れた竜の無機質な眼球がその瞳を映す。
しかしその瞳がヴェリドの心を揺らすことはない。眼窩の空洞に灯る蒼藍の光は竜をまっすぐと見つめ返した。
「アンディ! だめよ!」
ペペがそう叫ぶも、遠く離れたヴェリドの耳には届かなかない。ぺぺの視線の先には最後の一体となった闇泥人形がいた。
ぺぺの魔力は失われ、新たな闇泥人形を作ることはできない。それは正真正銘、最後のアンディだ。ぺぺの中に残っていたアンディの全てがその闇泥人形に込められている。
最後のアンディは申し訳なさそうな表情を浮かべながら、地面に突き刺さる蒼藍の魔剣を引き抜いた。ぺぺがアンディを制止しようとするも、すでに魔力を失ったぺぺの制御下を離れている。
少し遅れてナーデンも闇泥人形がしようとしていることに気づいた。ナーデンは顔をひどく歪めてアンディを見つめる。生と死、相反する願いはナーデンの中でぶつかり合い、その苦しみを表す叫びすら上げることができない。
アンディは蒼藍の魔剣を腰ほどまで持ち上げ、両の手で柄を硬く握った。剣身は左の脇腹に添えられ、藍の美しさは一層深くなる。
ぺぺはアンディにしがみついて止めようと駆け寄るが、アンディの表情は変わらない。ぺぺの制止は意味をなさず、アンディは剣の柄を右に引き切る。
アンディは申し訳なさそうな、それでいてどこか悟った表情のまま、小さな声で別れを告げた。
――わがままな僕を許してとは言わないよ。もう一つわがままを言うのなら、幸せになってほしい。
「ダメよ! 行っちゃ嫌! 私を置いてかないで!!」
――ごめんね。今までありがとう。
泥に還るアンディの言葉はヴェリドにもしっかりと聞こえていた。それは魂がアンディの泥の体から、ヴェリドの内へと移りゆく証だった。
アンディの自我が消える最後の瞬間、音として聞こえぬ言葉がヴェリドの中に注がれる。
――ぺぺをよろしくね。
ヴェリドがアンディの言葉に返事をすることはなかった。ヴェリドはただ蒼の輝きが増した魔剣を握り、竜に向かって駆け出した。
ナーデンの灰は破られ、ぺぺの闇泥人形もいない。だがしかし、彼らは十分過ぎるほど時間を稼いだ。ヴェリドが纏う瘴気と呼ぶには美し過ぎる力は、かつて竜を討ったクロウの瘴気に並ぶほど大きなものとなった。
くしくもその力の原理は対峙する竜やクロウと同じ端を発している。かつての竜災では、竜は虚空に集まる魂を巨木に還し、その力の一端を振るった。一方のヴェリドは数多の魂たちの瘴気の一部を貰い受けているのだ。
ヴェリドは彼らの力を感じながら、ナーデンが宙に作る灰の道を駆ける。竜は灰の鎖に縛られながら咆哮による衝撃波を繰り出すが、ヴェリドは蒼藍の剣圧で相殺する。幾度と咆哮を切り裂き、ヴェリドは竜の前に躍り出た。
蒼い瞳が竜の魂を捉える。魂と呼ぶべき虚空の先に、永く暗い悲しみを覗かせている。ヴェリドが深淵を覗いた時、深淵もヴェリドを覗いている。ヴェリドは無意識に魔剣を深淵に向かって剣を突き出した。剣先が深淵の先に届く前に、竜の叫びがヴェリドを現実に引き戻す。
蒼藍の魔剣は竜の鱗の隙間を縫い、心臓に突き刺さっていた。ヴェリドは淀みのない自らの魂を知覚しながら、魔剣に原初の力を注ぐ。
竜に突き刺さる魔剣は肥大化し、竜の体を両断する。両断された竜の肉体は地に落ち、断面からまばゆいほどの光が溢れる。光は蒼藍に吸い込まれていき、やがてヴェリドと一つになる。
全ての光が収束した時、深い藍色が空を覆っていた。ヴェリドは星の瞬く空に蒼藍を溶かした。
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