一人の死者と幾千の魂 91話:救いの名は

一人の死者と幾千の魂

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 教会の正面は異常なほどきれいだった。街の至る所に血痕があるというのに、そこには一切の血痕は見当たらない。その不自然さはまるで、そこで流れた血を見ないふりしているかのようだった。教会の前には天幕が張られており、外からは見えないようになっている。その天幕の中に聖女はいた。

「聖女様! どうか我らをお救いください!」

「魔獣たちが街の中に!」

「聖女様!」

「聖女様!」

「聖女様!」

 天幕の中で人々は聖女に救いを求める。街にあふれる魔獣から逃げてきた彼らは口々に己が見た恐怖を語った。惑う民衆を前に聖女は努めて冷静な声を出す。

「皆様、落ち着いてください。私はここにいます」

 聖女が纏う神聖な空気に、彼らは感じていた恐怖を忘れて、尊き存在を目前にして胸の前で手を組んだ。誰からということもなく、その場にいた皆が同時に祈りを捧げ始める。

「「「我らに救いがあらんことを、フェイレル」」」

 聖女は自分にすがってくる民衆の姿を見て笑う。彼らは聖女の表情を慈善の微笑みだと解釈したのか、柔らかな表情を見せる。その笑みは彼らに対する微笑みなどではないというのに。

 聖女の背後には大樹が高くそびえていた。教会の地下に埋められていた大樹は地上に隆起し、その姿を見せている。そこには神と呼ばれた御力の始祖たちが吊るされていた。死なず殺さずの状態で大樹と共にあった彼らは、水の御力を編み出した人物であるヌイを除いて屍となった。

 御力の始祖たる彼らが身を削っていたおかげで、今まで箱庭は箱庭たり得た。感情の巨木から離れた魂たちが健全に輪廻するには相応の代価が必要となる。巨木から独立した循環システムは聖女と神々と呼ばれた躯によって支えられていたのだ。

 箱庭の歴史の中で忘れ去られた彼らであっても、その身に課された責務を死に体になりながら履行していた。しかしそんな彼らの肉体は滅びゆく。半生半死で平衡を保ち続けた彼らもついに死に傾き始めた。

 そしてついに恐るべき日が来た。魂を循環させる装置と化した御力の始祖たちが死したのだ。これが意味するのは輪廻転生の環が途絶えるということ。輪廻の環から溢れた魂たちはこの世界を永劫に漂うことになる。今はまだ循環しているが、最後の一人がいつ屍となるかわからない。最後の一人が生き絶えれば、魂の循環が潰えるのも自明であった。

 循環が途絶える前に、巨木に魂を返さねばならない。瘴気に汚れた巨木が彼らの魂をどうするのかは分からないが、それでも最後の仕事は果たさなければならない。

 元はと言えば、巨木は人類の強欲によって穢されたのだ。あらゆる願いを実らせる巨木が元の姿を取り戻すのにどれだけの時間がかかるかはわからない。しかし少しでも多く、穢れを払った魂を輪廻に還せれば、巨木が瘴気から解き放たれるかもしれない。

 だから、聖女は彼らを救わ(ころさ)なければならない。

「私と共に赦しを希いましょう」

 音は無かった。聖女によって魂を還された者たちは、聖女直属の侍女たちによって奥に運び込まれていく。聖女は自身の身体と魂が悲鳴を挙げているのを感じている。しかし彼女は救うのをやめない。側付きの騎士に声をかけると、騎士が新たなる信徒を天幕に招き入れた。

 同じことの繰り返しだ。

 救おうとして力足りず、残ったものたちを切り捨て未来に繋ぐ。自己嫌悪に陥りそうな循環の中、思い出すのは一人の少年だった。ただの少女だった彼女を連れ出してくれた蒼い目をした彼。

 彼は感情の巨木を救うために奔走した。彼は祈りを知っていた。穢れゆく世界で純粋な善性を保ち続け、世界を救おうとしたのだ。彼の意思に人々は感化され、次第に仲間たちが集まった。かくいう聖女もそのうちの一人だった。

 だが、彼は道半ばでその人生に幕を閉じた。仲間であり、兄弟でもあったニアレイジの裏切りで心臓を貫かれたのだ。彼女は刺された彼に駆け寄るが、零れる命を前に何もできなかった。

 彼女は周囲にいた人々をかき分け、彼に駆け寄った。そして手を握り、泣き叫んだ。

――行かないで! ひとりにしないで!

 そんな彼女を見て彼は微笑み、そっと呟いた。

――ごめんね、みんなを助けてあげて。

 彼の願いは何者でもない少女に託された。そして少女は彼の願いを叶えるために、聖女となったのだ。

 聖女になった娘は、この世界の存続を願った彼の名を祈りの言葉とした。誰も彼もがその名の意味を忘れようとも、世界が忘れぬようにと。

「どうか私たちが救われますように」

「「「フェイレル」」」

 また、屍が増える。

※×※×※

 鴉がカプティルの街に転がる死体をついばむ。聖女がここまで派手にやるとは思わなかったが、現状は悪くない。アークはヴェリドに集まり、力を得た。殺意が自身に向いているのが残念なところだが、これからのことを前にして気にすることではない。

 怪物の咆哮が聞こえる。それは恐ろしいほどの瘴気を孕んだ絶望の声。クロウを殺さんとする殺意と怨嗟。

「アァァァァッッッ!!!」

 怪物が家屋を突き破り姿を現し、黒く染まった腕をクロウに伸ばす。

「はは、ははは! 最高だよヴェリド!」

 クロウがその手を払いのけられないほど高められた力に、クロウは笑う。もはや今のクロウではその怪物を打ち倒すことはできない。瘴気による攻撃は、根源の黒を前にして簡単に振り払われた。

 これこそクロウが求めた存在。自らを超え、聖女にその刃をかざす存在。それが殺意に濡れた怪物であっても、右手に持つ蒼藍の魔剣の存在が微かにヴェリドの存在を示していた。

 ヴェリドの魔剣がクロウに届く寸前、クロウはその姿を闇として散らす。そしてクロウの闇がヴェリドの中に注ぎ込まれる。

 身体が大きく波打つ。かつてアークを発現させるために与えられた鴉の翼が再び疼く。

 瘴気による侵食など、本来なら魔人に通じるはずのない子供騙しだ。だが、未成熟であった彼に残された繋がりが不可能を可能にした。

「はハ、悪くなイね」

 ヴェリドの躯をしたクロウは魔剣を作り出す。ヴェリドの意思が食いつぶされ、作り出された魔剣はアークに起因する紫紺の魔剣。

「さァ、殺そうカ」

 翼をはためかせる怪物は不気味に笑う。目指すは聖女の首のみ。

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